ジブリの「天空の城ラピュタ」や村上春樹の「風の歌を聴け」。
ディズニーの「アラジン」やリュックベッソン監督の「レオン」。
国内外問わず、名作と呼ばれる作品のうち、少なくない数の作品がいわゆるボーイミーツガールである。そう言って構わないだろう。
(一部、おっさんミーツガールが混じっているが)
ボーイミーツガール。ボーイがガールにミーツして挙げ句の果てに恋をする物語。
そんなボーイミーツガールの物語を作るとき、小説家はとある鉄則にしたがってストーリーを組み立てている。こんな鉄則だ。
少年(ボーイ)は少女(ガール)に二度出会うべし。
意味がわからない? まあそうだろう。このエントリでは、その鉄則について話をしたい。
目次
少年は少女に二度出会う
まず、「少年と少女が二度出会う」とは、どういうことだろう。
分かりやすい例で言えば――
パンをくわえて「遅刻遅刻!」と騒ぎながら走って出た少女が道端でイケメン男子とぶつかって口論になって、でも急いでいるからと少女は走り去っていって、後から学校でその少女が転校生として紹介されて、「あー!お前は!」「あんたは朝の!」
――という、あれだ。
ぶつかることで一度少年と少女は偶然にも出会い、口論しつつも遅刻しそうだからと別れ、そして学校の教室で再会を果たす。
一度出会い、別れ、また出会う。つまり、ボーイとガールは二度会う。
もちろん、実際こんなベタベタな物語なんて今も昔もまず見かけない。だが、実は多くのボーイミーツガール物語がこのスタイルを使っている。
やんわりと、それとなく、しかし確実に使っている。
例えば、冒頭で触れた村上春樹のデビュー作「風の歌を聴け」では、主人公はバーで泥酔している4本指の女の子に出会う。
裸で目覚めた女の子は、隣にいる主人公に対して「意識を失っている女に手を出すなんて最低!」と怒りをあらわにし(実際は、女の子は自分で脱いだ)、そして別れる。
その後、主人公は友人へのプレゼントを買うためにとあるレコードショップに入り、そこで働いている4本指の女の子と再会する。
一度会って、嫌われて別れて、また会う。
「新世紀エヴァンゲリオン」の庵野秀明が手がけた作品「不思議の海のナディア」では、冒頭で自転車に乗るナディアに一目惚れしたジャンが、彼女にアプローチをするも、無下に扱われる。
その後、ナディアのピンチに出くわしたジャンは、自分の発明品(一輪の奇妙な乗り物や飛行機)を使って彼女を助ける。
一度会って、嫌われて別れて、また会う。
そう。ボーイはガールに二度会ってナンボなのだ。
なぜ二度会うのか
そんな感じに、多くの作家は、この「少年と少女を一度会わせて別れさせ、そして再び会わせる」という話の展開の有用性を意識的にか無意識のうちにか理解し、活用している。
では、なぜ二回会うのか。少年と少女が二度会う話の展開は、何がどう良いのだろうか。そこに理由や根拠はあるのだろうか。
当然、ある。
少年と少女が二度会う構造になっていることによるメリットは、次の三つだ。
- インパクトある出会いを演出できる
- 説明なしにヒロイン紹介ができる
- 再会を期待させられる
一つずつみていこう。
理由その1:インパクトある出会いを演出できる
まず、そもそもの前提として、ボーイミーツガールに限らず、だいたいの物語の最初は何かと何かが出会って始まる。
この最初の出会いは、特筆すべき一つの強力な特徴を持っている。最初以外には許されない、ある強烈な特徴を。
それはこんな特徴だ。
冒頭の出会いでは、どんな偶然も許される。
物語の中であらゆる偶然が許される唯一の瞬間。非日常が起きても良い。宇宙人が来ても、自殺をしようとしている人を見かけても、部室に変な人がいても良い。
小説家は、そんなジョーカーを一枚持っているのだ。物語の冒頭、最初の出会いを演出する時にのみ切ることが許されるジョーカーを。
だから、一発目に印象に残るようなインパクトのある出会い方をさせて、読者に憶えさせる。そういう効果を生むことができる。
「天空の城ラピュタ」では空からシータが降ってくる。
「風の歌を聴け」では「僕」の隣で裸の女の子が寝ている。
「レオン」ではやさぐれた傷だらけの12歳くらいの美少女がタバコを吸っている。
「うる星やつら」や「ToLOVEる」でやってくるのはコスプレをした宇宙人だ。
最後のボスを倒すとき、偶然柱が倒れて敵が死んでしまったり、ミステリー小説で偶然証拠が見つかって犯人がわかってしまったりすることは許されない。そんな偶然は絶対に許可されていない。
しかし、冒頭は違う。あらゆる偶然とご都合主義が許される。その偶然の訪れが、物語の開始のゴングなのだ。
そして、あらゆる偶然が許される冒頭の出会いは、どこまでもドラマチックに仕立て上げて良い。
ミステリー小説で、探偵が都合よく謎や死体と出会うことを笑いのネタにする読者はいても、「ご都合主義だ」と本気で怒り出す読者はいない。
理由その2:説明なしにヒロイン紹介ができる
インパクトのある出会いをさせ、印象付ける。それだけなら別に二回会わなくても良い。けれど、鉄則では出会う回数は二回。
なぜ二回なのか? 一回ではなぜダメなのか?
出会いを二回にするのは、そうすることで、ヒロインに関する(どちらかといえば面白くない、事務的な)説明を完全に二回目の出会いの時に任せて、一回目の出会いはヒロインの見た目やキャラクター、特殊性だけにフォーカスをあてることができるようになるからだ。
一度目の出会いでは、説明的な話は無用。そんな風に割り切ることができるのだ。
ヒロインは勝気なのか、喧嘩っ早いのか、お嬢様なのか、おとなしいのか、理屈っぽいのか。
ヒロインのアクションで、リアクションで、小説家はヒロインの性格を、もう少し言えば魅力を可能な限り読者に伝える。
最初の出会いをインパクト重視のものにして、最初の出会いをコンパクトにまとめてキリッと別れさせると、必然的に無駄な説明がそぎ落ちていく。
そしてヒロインに興味を持ってもらった後であれば、事務的な情報も有益な情報に変わる。
好きな人のことならなんでも知りたい。けれど、どうでも良い人の経歴なんてそれこそどうでも良い。そういう話だ。
逆説的に言うと、ヒロインに興味を持ってもらうためには、小説家はその一発目の出会いで、ヒロインに対する恋心を読者に抱かせないといけない。
理由その3:再会を期待させられる
ボーイとガールを二度出会わせる理由の三つ目は、一度別れさせることで再会を期待させることができる、という点にある。
期待させる。誰に? 読者に。
そう、物語の中では冒頭で一度出会った男女は再び会うしか選択肢がない。会わなかったら読者のひんしゅくを買う。というか、基本的に本として世に出ない。少なくとも本屋に並ぶことはほぼない。
一度ヒロインに出会ってしまった読者は、もうスイッチが入っている。もう完全にズバッとキマってしまっている。「この物語の主人公は、あそこで出会った誰それと恋に落ちるのだろう」と。
そんな心理状態の中、「別れ」という焦らしが、次に彼女が出てくるまでの文章を読むモチベーションとなる。その焦らしが、ページをめくる指をドライブする。「さてさて、どのようにあの子は再び現れてくれるのか!」と。
そして、見事予定通りに再会したら、こう思うのである。「やはりこの彼女が(この物語の主人公の)運命の人なのだ」と。
だから、逆に再会しなかったら、読者は金を返せと怒るだろう。空から降って来たシータがパズーに助けられて、「ありがとう、じゃあね!」と去っていき、その後二度と会わずじまいだったら、物語なんて何一つ始まらない。
そんなことをした日には、どれだけの文句を言われることやら!
おわりに
そんなこんなで、ボーイミーツガールは二回会わせるのが鉄則。
もちろん、出会いが一度だとダメと言っているわけじゃない。それでうまくいっている話も沢山ある。
ただ、初心者は特に「ボーイとガールを二回会わせる」というフォーマットを利用することで、苦労なくそれっぽい型にはめることができるんじゃないかと思う。
活用されたし。
ライトノベル作家。
商業作家としての名義は「くれあきら」とは別。今は主にブログで小説にまつわるアレコレを配信中。デビューから商業作家時代の話を「今、小説家になるために必要なもの(1)」に書いてます。