あの作品で使われている物語技法(映画「コーダ あいのうた」)

今回は、映画「コーダ あいのうた」で使われている物語テクニックについて語ろうと思う。

もちろん、このエントリはネタバレをふんだんに含んだ内容になっているので、映画を見た上で読んでもらうのが良いだろう。大きなどんでん返しがあるような映画ではないけれど、まずはフラットにこの物語の素晴らしさを染み込ませてからでも遅くはないはずだ。

準備は良いだろうか。では、いってみよう。

「コーダ あいのうた」とは

まずは、映画「コーダ あいのうた」のあらすじについて、ざっと触れてみたい。こんな感じだ。

主人公は高校生の女子、ルビー。彼女の家族(父、母、兄)は、ルビーを除いて全員が耳の聞こえない人たち(ろう者)だった。

一家は田舎の港町で漁師を生業としていて、高校生のルビーも漁師&手話の通訳として家族の仕事を手伝い、協力して生きていた。

ある日、高校生活の中で気になる男子を見つけたルビーは、その男子マイルズに近づくため、彼の所属する合唱部に入る。やがてルビーの歌声はV先生の耳にとまり、マイルズと一緒にデュエット曲を歌うこととなる。

マイルズとデュエット曲の練習に勤しむルビー。しかし、ろう者の家族の行動のせいで、マイルズと喧嘩をしてしまう。

一方、ルビーの家族を含む漁師たちは、某団体(行政、組合)から、あれこれの制約(捕獲量制限、監視員をつける)を言い渡される。それに激昂したルビーの父親は、団体に喧嘩を売り、それをきっかけに一家は多忙に。

ルビーも家族の手話の通訳のために忙しくなり、そのせいでV先生のレッスンにたびたび遅刻。

何度目かの遅刻の後、ついに「真剣でないならやめろ」とV先生に失望される。

ルビーは肩を落として家に帰り、「大学で歌をやりたい」と訴えるが、家族からは耳の聞こえるものがいなくなったらどうする、と冷ややかな反応が返ってくる。

ルビーと家族の間はそんな風にしこりがある状態だが、マイルズとは仲直りをする。湖の中で泳ぎ、楽しいひとときを過ごす二人。

その裏で、一家は漁船に監視員を乗せて漁に出る。しかし、ろう者だけの漁に危険を感じた監視員と某団体は、一家の漁を禁止することとした。再開の条件は、耳が聞こえるものを船に置くこと。

人を雇うことができない一家からすると、ルビーに船にいてもらうほかない。悩んだ挙句、ルビーは大学を諦めて地元に残り、家族を手伝うことに決める。

後日、ルビーの晴れ舞台を見るため、学内で行われる合唱コンサートに参加する家族。当然、一家に歌は聞こえない。だが、会場の周りの様子から、ルビーの歌が人を楽しませ、感動させていることを、家族は知る。

その夜、ルビーは父親に「自分のために今日の歌を歌ってくれ」と頼まれ、歌う。その喉元を触って振動を感じ、聞き入る父親。

翌日、父親はV先生が設けた推薦枠でルビーを受験させるため、車を飛ばして家族みんなで大学へと向かう。

急遽大学の試験会場で歌うこととなったルビー。試験会場の二階席を見ると、そこにはこっそり忍び込んだ家族の姿があった。それを見たルビーは、歌いながら手話をし、歌詞を家族に届ける。

試験は無事合格。ルビーは愛する家族とハグをして別れ、大学の寮へと行くことに。

長い? では一文で言ってみよう。こうだ。

歌好きのコーダ(※)の少女が、歌の聞けない家族たちに、歌を伝える物語。

(※)耳の聞こえない両親の子供。Children of Deaf Adults

この物語で使われているテクニック

この物語でもやはり多くのセオリーと呼べるようなテクニックが使われているのだが、このブログエントリでは以下について説明していこうと思う。

・巧妙に隠された伏線

・情報を削ぎ落とすことにより情報を伝える

・絶望と救済

さて、では行ってみよう。

巧妙に隠された伏線

「コーダ あいのうた」は、タイトルにもある通り、コーダ、つまり「耳の聞こえない親を持った子供」だということがどういうことかをテーマにした映画である。

主人公のルビーは、家族の放つ音(放屁や生活音、セックスの時の声)に、日々呆れたり、不快感を示したりする。

その中で、父親は耳が聞こえないにも関わらず、『低音が響くのが心地よい』という理由でヒップホップを車で爆音でかけながらルビーの高校まで迎えに行っては、騒音を撒き散らす。

当然、周りからは冷笑を浴びせられるような状況で、ルビーもこれを快く思ってはいない。

そんな迷惑を与えるくらいなら、しかもどうせ聞こえないなら、音楽など鳴らさないでくれ、と思わせるような描写である。

しかしその後、ルビーの歌声は人々を幸せにする、と感じた父親は、ルビーに「俺のために歌ってくれ」と願う。そしてルビーの首元に手をあて、彼女の喉の震えをその体で感じようとする。

ヒップホップの低音を感じる時と同じように、その振動で音を捉えようとする。

そうやってルビーの歌を聞いた父親は、彼女を大学に行かせることを決意した。

そう。

体でビートを感じるという父親の忌々しい習性が、物語の終わりでは自分の娘を理解するための愛すべき方法に化けているわけである。

なんと見事に物語に溶け込んだ伏線であることか。

これについては、別エントリ『小説家はどんなことを考えながら伏線を張っているのか』も参照してもらいたい。

情報を削ぎ落とすことにより情報を伝える

物語の後半、一家は高校のコンサートに足を運ぶ。もちろん一家にルビーの歌声など何一つ聞こえないわけだが、それでも家族の晴れ舞台であることには変わらない。

そしてルビーの出番が来て、ルビーの美しい歌声が聴けると、映画を見ている観客たちが楽しみにしているまさにその時、映画から音が消える。

ミュートになり、父親たちが感じている世界に、半ば無理矢理に連れていかれるのだ。

音のない世界の中で、父親たちはコンサートの会場を見回す。

その周りの面々の幸せそうな表情を見て、なるほどうちの娘には歌の才能があるのか、と理解する。

映画の中から音をなくすことで、人々の笑顔や涙だけに集中をさせることで、一家がどのような世界を生きているのか、そのことを観客に追体験させることに成功している。

伝えないことで、逆に一層確かに伝えることに成功しているのだ。

これについては、別エントリ『小説家が使う演出のテクニック』もぜひ参照してもらいたい。

絶望と救済

さて、「コーダ あいのうた」は名作だ。どうしようもなく名作だと思う。

それは、まさにここで取り上げる「絶望と救済」のテクニックによって観客の感情を文字通りどうしようもなく揺さぶることに成功しているからである。

意味がわからない?

オーケー、説明をさせてもらおう。

ルビーの才能を知った父親は、彼女を大学進学させるために、彼女を乗せて入試の会場へと車を飛ばす。

大学の入試試験の会場、ルビーはこっそり入ってきた家族たちを遠くに見据えながら、試験官を前に歌う。

会場内にルビーの美しい歌声が響く。

だが、それは当然ろう者である家族の耳には届かない。先の「情報を削ぎ落とすことにより情報を伝える」で述べた、音のない世界の演出のせいで、僕たちはそのことを理解している。残念ながら、この家族には、ルビーの美しい歌声は届かない、と。

手で触れてその響きを確かめることも、観客の顔からその素晴らしさを汲み取ることも、この試験会場ではできない。

しかし、ルビーは2コーラス目から、歌いながら歌詞の手話を始める。歌の聞こえない家族に、それでも歌を届けるためだ。

その時、僕たちの絶望は救われる。

美しい歌声は、家族の耳には届かない。

しかし、それでも、その歌を形作るかけらは、ルビーの指先から家族の元に伝わっている。家族が、それを受け取っている。

そこに一筋のつながりを感じて、僕たちの絶望は救われるのだ。

共感をさせ、絶望をさせ、ひとかけらの救いをもたらす。

このテクニックを活かせる場所はそれほど多くはないだろう。しかし、それゆえに、素晴らしい効果を発揮するに違いない。挑戦するには難易度が高いだろう。

だが、やる価値がある挑戦だ。

これほど心躍るチャレンジは、そうそうない。

終わりに

「コーダ あいのうた」は、素晴らしい映画だ。

複雑な映画ではない。①「家族&漁業の話」と、②「学校&音楽の話」が交互に現れる、シンプルで素直な映画だ。大きなひねりも、意外性のかけらもない。

だが、これまで見たどの映画よりも、得体の知れない奥深い何かを差し出された気がした。

まだまだ、学ぶことはある。

僕もそうだ。

キミも、このブログの中から少しでも参考にできるものがあれば、それを使ってみてもらえらばと思う。それに勝る喜びはない。

活用されたし。