今回は、2022年11月に公開された新海誠監督の映画「すずめの戸締まり」で使われている物語テクニックについて語ろうと思う。
もちろん、このエントリはネタバレをふんだんに含んだ内容になっているので、できれば映画を見た上で読んでもらうのが良いだろう。読み進める方は、その点ご注意を。
準備は良いだろうか。では、いってみよう。
目次
「すずめの戸締まり」とは
まずは、映画「すずめの戸締まり」のあらすじについて、ざっと触れてみよう。こんな感じだ。
主人公は、子供の頃に親を亡くし、叔母に育てられた九州の女子高生すずめ。
ある日すずめは、学校へ行く途中、廃墟を探している一人の青年に出会う。近くの廃墟の場所を青年に教えたすずめは、その後青年のことが気になって廃墟へと足を運んでみると、廃墟にある広場の中央にポツンと立っている扉を眼にする。
その奇妙さに引き寄せられて扉に近づいたすずめは、ふと扉近くにある石を拾い上げる。するとその石は猫になって走り去っていった。
一体なんだったのかと思いながら学校に行き、先の廃墟の方をみてみると、そこには巨大な黒い煙が生き物のようにうごめいていた。
何が起きているのかと、廃墟に駆けつけてみるすずめ。黒い煙は広場の中央の扉から噴き出していた。
見ると、青年がその扉を閉じようとしていた。すずめは青年と力を合わせ、その扉をどうにか閉じることに成功する。
すずめは、扉を閉じる際に怪我をした青年を連れて帰り、手当をして話を聞く。青年の名前はソウタ。ソウタは、先のように扉から出てこようとしている黒い煙=ミミズを、扉を閉めることで地下に押し戻す「閉じ師」を代々生業としている家系の者だという。ミミズが倒れれば地震が起き、災いがおこる。なので、閉じ師の一家はそれを防いでいるのだ、と。
そんな話をしている中で、ふと痩せた猫が現れる。すずめが餌を与えると、猫は突然しゃべり出し、ソウタを椅子に変えてしまう。猫の正体は、扉からミミズが出てくるのを防いでいた、扉近くに置かれていた石(災いを抑える石=要石)だった。すずめが拾い上げたため、逃げ出せたのだとか。椅子になったソウタと、責任を感じたすずめは、ソウタを元の姿に戻すため、猫を探す旅に出る。
SNSにアップされている猫の目撃情報を頼りに、全国を巡りながら、猫を追い詰める二人。捕まえる寸前まで持っていくことができても、その都度ミミズが出そうになるので、扉を閉じることに注力せざるを得ず、一向に猫を捕まえられないでいた。
そうこうしているうちに二人は東京までたどり着き、そこでかつてないほど大きなミミズに遭遇する。そのミミズと対峙する中、ソウタは徐々に意識を失い、その中で自らが猫の呪いにより要石にさせられていたのだということに気づく。
すずめは東京を覆うミミズにソウタを要石として突き刺すことで東京を災いから救いつつも、ソウタを助け出すことを決意する。ソウタの祖父との話の中で、自分が行くべき場所は、自らの生まれ故郷である東北だということを悟ったすずめは、東北へと向かう。
いくつものトラブルを乗り越え、生まれた地へたどり着き、そこで扉を見つけ出すすずめ。扉の向こうである常世(つまりあの世)へ行くと、そこには荒れ狂うミミズがいた。すずめは、ミミズを押さえている椅子=ソウタを引き抜き、代わりに自らが要石になろうとする。しかし、かつて要石であった猫が身代わりの要石になることで、ミミズは鎮まり、ソウタが元の姿で帰ってくる。
静まり返った常世で、すずめはかつての幼かった自分を見つけ、「これから色々なことがあるけれど、あなたは大丈夫だよ」と椅子を渡してこの世に送り帰し、自らもソウタと共にこの世に無事戻ってくる。
その後、全国を沈めながら旅していたソウタは、九州に帰ったすずめに会いに行く。
長い? では一文で言ってみよう。こうだ。
呪いで椅子になった青年を助けるために旅をする女子高生が、日本の災いを沈めながら青年を元の姿に戻す話。
この物語で使われているテクニック
この物語では例のごとく大量のセオリーと呼べるようなテクニックが使われているのだが、このブログエントリでは以下について説明していこうと思う。
- ボーイミーツガールのセオリー
- のっぴきならない理由を作って主人公に旅をさせる
- 究極の選択を突きつけられた時の振る舞い
さて、では行ってみよう。
ボーイミーツガールのセオリー
「すずめの戸締まり」という映画のベースにあるのは、ボーイミーツガールの物語だ。あるいはガールミーツボーイというべきだろうか。主人公のすずめはイケメン青年のソウタと出会い、一度別れて再び出会う。この「ヒロイン/ヒーローとまず出会い、一度別れて再会する」というフォーマットは、ボーイミーツガールの物語における定石だ。
これにより、視聴者は「主人公すずめは一体どうやって青年ソウタと再会するのだろうか」と期待をし、物語に対して前のめり気味になる。
ボーイミーツガールのセオリーの詳細については「名作に学ぶボーイミーツガールの鉄則」もぜひ参照してもらいたい。
なお、ここでの出会いは先に示した「名作に学ぶボーイミーツガールの鉄則」にあるセオリーを少し外していて(というか別のセオリーを利用していて)、すずめとソウタの出会い方はややインパクトに欠けるものになっている。これは、映画の最後、二人が出会った場面と同じ場面で終わらせ、物語が始まった場所で、始まった時と同じショットで、円を描くように綺麗に終わらせるという効果を狙ってのことだ。
そこまで考えて、本作ではおしとやかな出会いの場面となっている。もしこれが、イケメン青年が空から降ってくる出会い方や、ミミズとバチバチに争っている中での出会いだったとしたら、この最初と最後が繋がることによる循環の余韻は生まれない。心憎い演出だ。
のっぴきならない理由を作って主人公に旅をさせる
本作では、椅子になったソウタとすずめは、しゃべる猫(ダイジン)を追いかけて全国を旅することとなる。これは、猫を捕まえることでかけられた呪いを解き、ソウタの姿を元に戻すためである。
着想の順番としては、おそらく「南から北まで全国をまわって扉を閉じて災いを収めるロードムービーをやる」というベースがあり、そこにどうやって主人公である一介の女子高生すずめを参加させるか、ということを考えた時、すずめの失敗(要石をどかしてしまった)のせいでソウタ青年が呪いをかけられ、不自由な体(椅子)になってしまった、だからそれをヘルプするためについていく、という結論に至ったのだろう。
物語の主人公がいかにして旅に出るかは、「小説家は主人公にどんな理由で旅を開始させる?」もあわせて参考にしてもらいたい。
なお、余談だが(と言いながら個人的には重要だと思う部分だが)、本来であればすずめの失敗(要石をどかす)とソウタが呪いをかけられる場面は一連の流れにした方が、よりわかりやすい話になるのだが(というか猫が後から部屋にやってきてソウタに呪いをかけるという作業は、作り手側としてもスマートさに欠けているという自覚はあるだろうが)、本作ではそうしていない。その理由はいくらかあると思うが、こんなところが代表的なものとして挙げられるだろう。
- 扉を閉じるという儀式を一度人間の姿のソウタがやらないと、その後すずめがそれを真似て扉を閉じることが難しいと考えた(その後、すずめに戸締まりをやらせているので)。
- 派手なドンパチを終えた後に、いったん視聴者も含めてキャラクターたちを休ませ、旅の目的や奇妙な扉の謎を語らせないと視聴者が疲れる&ついていけなくなると考えた。
- できるだけイケメン青年の姿ですずめとコミュニケーションを取らせることで、視聴者の目にも二人が並んでいる姿をなじませたかった。
- ソウタの怪我を治した後、忘れ物をしたなどの理由をつけて、二人で廃墟に戻って(あるいは要石に曰くがある場所に足を運んで)、そこで要石から呪いをかけられる、といった話運びをさせるのは、コスト(上映時間を増やして、作画枚数を増やす)の割に効果が見合わないと考えた。
こうした細かい調整をどこまで行うかは作品と人により様々だろうが、矛盾や不自然さを排するために徹底してやったとしても、逆にそれが話を冗長にしてしまうこともある。
なので、主人公たちには、ある程度理不尽にトラブルに見舞われ、ある程度勢いで旅に出てもらうのが良い場合もある。映画のように巨大資本が絡む場合には、特にそうだろう。
究極の選択を突きつけられた時の振る舞い
物語の中で、すずめは究極の選択とも言える状況に出くわす。それも、二回。
一回目は、東京の街に降り注ごうとしている災いを防ぐために、要石となったソウタ(椅子)をミミズに突き立てる時。
二回目は、東北の生まれ故郷で、要石として自らが突き立てたソウタ(椅子)を引き抜き、自らが代わりに要石となるという時。
一回目の究極の選択では、すずめは多数の人のためにソウタを犠牲にした。
二回目の究極の選択では、すずめはソウタのために自分自身を犠牲にしようとした。
一回目の究極の選択は、二回目の究極の選択で取り戻すことを前提とした下準備である。つまり、一回目の選択で、いったん大切な人を一時的に生贄として捧げることで、主人公すずめの行動をより積極的なものにし、自分ごととし、二回目の究極の選択で自己犠牲を選択させるためのベースを作り出した。
そして、物語は(言い方は悪いが都合良いことに)猫のダイジンが「やっぱり自分が犠牲になるよ」と自らが要石になることでソウタもすずめも助かる、という運びになっている。
以前、こうした究極の選択を迫られた場合の主人公の行動のセオリーとして、どちらも取る、どちらも諦めない、というものがセオリーだという話を「主人公が「究極の二者択一の選択」に直面した時、小説家は主人公をどのように動かすか」で書いたが、これに「主人公は自らをかえりみない選択をするが、第三者がどうにかしてくれる」というパターンを追加しておく必要がある。結果としては「AもBもどちらも取るパターン」の亜流だが、明示しておく意味はある選択肢だろう。
終わりに
今回、新海誠監督は女子高生に全国を巡らせるためにかなり色々と苦労をした形跡が手に取るようにわかった。その痕跡があちこちに見て取れる。
最初の四国行きは猫を追いかけて行った結果ということで良いとして、その後の兵庫にヒッチハイクでうまいことたどり着くところや、東京のソウタのアパートでソウタの友人に出会い、その車で結果的に東北まで連れて行ってもらうことになるところなどは、側から見ていてかなりガタピシしたものを感じずにはいられなかった。
お金も足もない女子高生が全国を巡って旅をする以上、そうなることは明白だったわけだが、その辺りの無理や無茶を押しても、この国の災いを南から北まで沈めて回る、という物語を作ることは、新海誠監督にとって意味があったのだろう。それこそがこの作品をやる意味だったのだろう、そう思う。
それはある意味において素晴らしく、あっぱれな話だ。
しかし、それはさておき思ったことがある。
やはり売り上げの上がる、集客が見込める大作を作る必要がある立場の人間になると、別のフォーマットに切り替えることは本人も周囲のスタッフとしても難しいのだろう。
「君の名は。」以降、「愛しいキミが世界を破壊するレベルの天変地異に巻き込まれてえらいことになるのを、どうにかこうにか助ける」という型からはみ出せていないという状況は、見ていて辛いものがある。
- 「君の名は。」では、キミを助けるために世界を救う。
- 「天気の子」では、キミを助けるために世界を滅茶苦茶にする。
- 「すずめの戸締まり」では、キミと世界を助けるために自分を犠牲にしようとする。
乱暴に言ってしまえば、昨今の作品はそんな感じだ。言うなれば、末尾のバリエーションはあるにせよ、一昔前によく言われていたセカイ系をやっている感じなわけである。
ここから先、新海誠作品がこのまま「むき身の体で若い男女が空を飛びながら手をつなぎあう」方向性の話を作り続けるのか、それとも別の話を作るのか。どちらにせよ、新海誠監督にとっては、色々な意味での過酷な戦いが待っていることだろう。
今後のさらなる活躍と健闘に期待したい。
ライトノベル作家。
商業作家としての名義は「くれあきら」とは別。今は主にブログで小説にまつわるアレコレを配信中。デビューから商業作家時代の話を「今、小説家になるために必要なもの(1)」に書いてます。