あの作品で使われている物語技法(映画「パラサイト 半地下の家族」)

今回は、映画「パラサイト 半地下の家族」で使われている物語テクニックについて語ろうと思う。

もちろん、このエントリはネタバレをふんだんに含んだ内容になっているので、映画を見た上で読んでもらうのが良いだろう。いい意味で予想は裏切られるので、それを味わわずして内容だけを知るのはもったいない。

準備は良いだろうか。では、いってみよう。

「パラサイト 半地下の家族」とは

「パラサイト 半地下の家族」は、アカデミー作品賞を受賞した2019年公開の韓国映画である。この映画のあらすじについて、ざっと触れてみよう。こんな感じだ。

主人公は半地下に住う貧乏一家。ある日その一家の長男のところに大学生の友人が訪れ、「僕が受け持っている金持ち一家の娘の家庭教師の代役を引き受けてくれ」と言われる。貧乏一家の長男は「自分は大学に行っていない。家庭教師をするには嘘をつくことになる」と躊躇いつつも、代役を引き受け、うまいこと金持ち一家に入り込むことに。

金持ち娘の家庭教師をする中で、貧乏一家の長男は金持ち一家の母に対し「息子さんにも美術の家庭教師をつけてはどうか」と、自分の妹を友達のいとこと称して紹介する。その後、貧乏一家の長男と妹は金持ち一家に雇われていた専属運転手と家政婦を追い出し、貧乏一家の父親と母親がそのポジションにつくように画策する。そして貧乏一家は、お互いが他人のフリをしながら、金持ち一家からそれぞれ仕事を得ることに成功するのだった。

順調に金持ち一家から金を吸い上げる貧乏一家だが、事件は金持ち一家の長男の誕生日に訪れる。その日、金持ち一家はキャンプで外出。貧乏一家は金持ち一家の豪邸の中でどんちゃん騒ぎを繰り広げ、部屋を散らかし放題する。外は土砂降りの雨。

そんな中、『地下に忘れ物をした。入れてください』と首になった家政婦が訪れる。地下室に行ってみると、そこには家政婦の旦那が寄生をしていた。『地下に住う旦那に、定期的に食事を与えてもらえませんか』と懇願する元家政婦に対し、警察を呼ぼうとする貧乏一家の母親家政婦。

しかし、貧乏一家が全員グルで、実は家族であることが元家政婦にバレたことから、貧乏一家と地下寄生夫婦の立場が逆転し、争いが起こる。「金持ち一家を騙して取り入っていることを、金持ち一家に知らせてやる、そうしたらお前らは終わりだ」と貧乏一家を脅す地下寄生夫婦。

取っ組み合いの争いをする中、金持ち一家から連絡が入り、「キャンプは中止、あと数分後に家につく」と伝えられる。部屋は散らかり放題、地下寄生夫婦は暴れ中。ドタバタの中、貧乏一家は地下寄生夫婦を縛り上げて地下室に放り込み、突貫で片付けをしてギリギリ逃げ切る。この時のドタバタのせいで、地下寄生夫婦の夫人は地下室の中で死んでしまう。

翌日、金持ち一家は雨でダメになったキャンプの埋め合わせとして庭でパーティを開くことに。その中で貧乏一家も家庭教師、家政婦、ドライバーとしてパーティに参加をする。

が、地下に押し込められた地下寄生夫婦の夫が、妻を殺された恨みを胸に、パーティに乗り込み、貧乏一家を殺しにかかる。

貧乏一家の妹は、パーティの中に乱入してきた地下寄生夫に殺される。貧乏一家の母親も殺されかけるが、それを守ろうと貧乏一家の父が逆に地下寄生夫を殺す。その混乱の中で、貧乏一家の父は金持ち一家の父をも殺し、貧乏一家の父はそこで蒸発をする。

事件の後、金持ち一家は豪邸を引き払って何処かへと消え、豪邸には別の誰かが住うことに。そして貧乏一家の母と長男はひっそりと暮らす。が、貧乏一家の長男は、父があの豪邸の地下に今も隠れていることを知り、いずれあの家を買い、父を救い出そうと決意する。

長い? では一文で言ってみよう。こうだ。

金持ち一家を騙して寄生パラサイトする貧乏一家が、足元をすくわれて破滅する物語。

この物語で使われているテクニック

この物語では例のごとく大量のセオリーと呼べるようなテクニックが使われているのだが、このブログエントリでは以下について説明していこうと思う。

  • 観客を上位に立たせることによるスリル
  • バレるとまずい状況
  • 分かりやすい伏線(出オチ伏線)
  • 逆算でのストーリー組み立て
  • 予想外の展開

さて、では行ってみよう。

観客を上位に立たせることによるスリル

「パラサイト 半地下の家族」では、貧乏一家の面々が素性を偽って金持ち一家に取り入っていく様が冒頭で描かれる。長男は大学に行っていないのに偽装証書で家庭教師の職を得たり、妹は美大生のフリをしてみせたり、全員が家族であることをひた隠して各人に接したり。

しかし、そんな嘘偽りのことは視聴者には伝わっているわけで、いつそれがバレるのでは、と視聴者はヒヤヒヤすることとなる。

このように、視聴者の持っている情報量を登場人物の持っている情報量よりも多くすることで(=観客を上位に立たせることで)、本作は観客にスリルを与えている。

読者をハラハラさせる方法については、別エントリ『小説家はいかにして読者をハラハラさせるか』でも詳しく書いているので、ぜひとも参照されたし。

バレるとまずい状況

また、本作では、貧乏一家の面々が金持ち一家の不在の隙に、リビングでどんちゃん騒ぎをする。しかもこのとき、外は大雨。どう考えても金持ち一家がキャンプから戻ってくるお膳立てが整っている状況だ。

観客は『早く片付けないと、金持ち一家が帰ってきたら対応できないぞ』とハラハラすることとなる。

ちなみに、映画では違ったが、この状況で金持ち一家がキャンプを取りやめて家に戻っているという描写を事前に入れれば、先に触れた『観客を上位に立たせることによるスリル』のテクニックを使ったシーンに様変わりする。

分かりやすい伏線(出オチ伏線)

先の『バレるとまずい状況』でも触れたが、この映画では家族がキャンプに行った後、豪雨が降っている。しかも部屋では貧乏一家がどんちゃん騒ぎ。

「金持ち家族と貧乏家族が鉢合わせをするかもしれない」という状況を作り出すための伏線が、分かりやすく明確に話に織り込まれている(ここでは「豪雨」という形で)。

こうした分かりやすい伏線は、後から「なるほど!」と納得を与えるような通常の伏線とは違い、出てきた瞬間にある種の予感を与えることを役割としている。

言ってしまえば、出オチみたいな伏線というわけだ。出てきた瞬間にそれが伏線とわかるような、そんな伏線である。

というわけで、そのような伏線を『出オチ伏線』と呼ぶことにしよう。

こうした出オチ伏線は、『バレるとまずい状況』と組み合わせることで、先の『観客を上位に立たせることによるスリル』と近い状況を作り出す。

(『家族はキャンプに行ったが、今は豪雨だ。となると、家族は帰ってきてしまうだろう。どんちゃん騒ぎをしている場合ではないぞ!』)

『観客を上位に立たせることによるスリル』が群像劇や他視点の小説で威力を発揮するのに対し、『出オチ伏線』+『観客を上位に立たせることによるスリル』は、視点を切り替えられない一人称小説などで使いやすいだろう。

逆算でのストーリー組み立て

この映画では、終盤で貧乏一家の父親が金持ち一家の父親を殺す。しかし、では殺すに至った理由は何かというと、一応それっぽい仕打ち(金持ち一家の父親に「臭い」と罵られる)を受けはするのだが、それでも「だからと言って殺すか?」と思える程度の、薄味の理由だ。

また、貧乏一家の父親が激情型であるので、その辺りも殺害の原因と捉えることもできなくはないが、それにしてもやはり唐突な感じはあり、説得力に欠ける。

そんな風に、殺害の理由にイマイチ納得感が持てない。しかし、この殺害理由に関しては、人間の心理的な面からアプローチをしている限りは、正解にたどり着かない。

なぜ貧乏一家の父親は金持ち一家の父親を殺したのか。それは、身も蓋もない言い方をすれば、そうしないと最後のサプライズを描けないからだ。

最後のサプライズというのは、蒸発した貧乏一家の父親が、実は金持ち一家の豪邸の地下にずっと隠れていた、というショッキングな事実のことである。

本作の製作チームは、この最後のどんでん返し=驚き=サプライズを提供するため、どうしても貧乏一家の誰か(別に父親でなくとも良かった)に、罪を犯してもらって逃げ出してもらう必要があった。

加えて、この金持ち一家の豪邸から事件関係者を排除し、事件と豪邸の関係性を切り離し、豪邸から事件臭を脱臭するために、この金持ち一家にも離散して豪邸を離れてもらう必要があった。

それを実現する一番手っ取り早くて確実な方法が、貧乏一家の父親による金持ち一家の父親の殺害だったというわけだ。

臭いと罵られたから殺した、というのは後付けだ。別に他の理由でもいいし、最悪金持ち一家の父親を殺す人物は貧乏一家の父親でなくとも良い。

サプライズ(貧乏一家の父親は地下にいた)を作り出すために、逆算して作られた帳尻合わせのための伏線(臭いと罵られた)と行動(金持ち一家の父親を殺した)が物語に配置されているのだ。

多くの物語作家は、このようにラストのイメージから逆算で物語を紡いでいくことが多い。この映画がそうして作られているように。

予想外の展開

この映画を見終わった時の最初の感想は、「これはハリウッドの世界観からはなかなか出てこないだろう」というものだった。理由は単純で、先の『逆算でのストーリー組み立て』で触れた通り、主人公一派である貧乏一家の父親の行動がエキセントリックだからだ。

この行動のエキセントリックさ、奇抜さは、理屈と仕組みを重視するハリウッド的なプロットからはちょっと生まれ辛い。

この父親の最後のエキセントリックな行動は、先に述べたとおり、物語を収まりの良いところに収めるための行動なのだ。つまり、キャラクターの心に深くシンクロし、このキャラクターなら何をするだろうか、ということを考えた結果の殺人ではなく、あくまでも「蒸発した貧乏一家の父親が実は地下に隠れていた」という驚きを最後に持ってくるための手段だったわけだ。間違っても、その逆(「この激情型の父親は、金持ち一家の父親を殺した後、どうするだろう」)のアプローチから生まれた結論(「実は地下室に逃げ込んでいた、というアイデアはどうか」)ではない。

もしこの映画が、貧乏一家の父親が金持ち一家の父親を殺すに至る心理を丁寧に描いていたなら、それはそれで納得のいったものになったかもしれない。そして、スタッフはそういうこともできただろう。

しかし、もしそうしていたら、視聴者はここまで「予想外のトンデモ展開が起きた!」と思いはしなかっただろう。金持ち一家の父親が貧乏一家の父親を罵れば「確かにあれだけ罵られれば殺すのも納得」となるかもしれないが、逆に「どうしてそうなった!」というような驚きや衝撃を生み出す力も弱くなる。

この映画は、良くも悪くもそういった随所に見られる荒々しさ、良い意味での適当さを楽しむことができる。

逆に言えば、ハリウッド的な折り目正しいどんでん返しとは一味違った、パラサイト的な荒々しい予想外展開を演出するためには、説明を一定量省いてみるのも一つの手だ、といえるだろう。

丁寧に説明をすることだけが、物語の真髄ではない。もっと自由に物語を綴っても良いのだ。もちろん、それを他人に受け入れられるように仕立て上げるのは、相当のバランス感覚が必要となるわけだけれど。

終わりに

この「パラサイト 半地下の家族」という映画は、いろいろな気づきを与えてくれる。

本エントリでも触れているように、物語の持つ荒々しさ(悪い言い方をすれば心理描写の雑さ)が予想外の展開を生み出しうるということもそうだ。

エロティックなシーンは滑稽でもある、ということもそうだ(この映画にはそういうシーンもあるのだ)。

ハングルの文字もおしゃれに書くことができる、ということもそうだ(あまり思い至ることもないのだが、すべての文字はおしゃれな書体で表現することができる)。

キミもこの映画から、何か気づきを得たことだろう。何かを感じたのなら、それがキミの財産になる。動かされた感情の数だけ、物語を書く武器を手に入れたことになる。

キミが学んだことを、キミの物語に活用されたし。

ライトノベル作家。
商業作家としての名義は「くれあきら」とは別。今は主にブログで小説にまつわるアレコレを配信中。デビューから商業作家時代の話を「今、小説家になるために必要なもの(1)」に書いてます。