当初小規模な上映だったが、その面白さから全国で上映されるに至った超低予算映画、「カメラを止めるな」。
この映画で使われている物語テクニックを語ろう。
目次
「カメラを止めるな」について
まずお伝えしておきたいのだけれど、このページにはネタバレがぶっちぎりで登場する。
「カメラを止めるな」はオススメの映画なので、まずは映画を見てから読んでもらいたい。見ずにこれを読むのはもったいない。
良いだろうか。
ではいってみよう。
あらすじ
「カメラを止めるな」は、どんな映画だろう。世間ではこんな紹介のされ方をしている。
「ゾンビ映画を撮っていたクルーが、一人また一人と本物のゾンビになっていって……ネタバレになるため内容に触れることはできないけれど、とにかく面白い映画」
内容をいうと、まず最初の30分くらいはワンカットでずっと「ゾンビ映画を撮っていたクルーが、一人また一人と本物のゾンビになっていって」の部分が映し出される。一応シリアスな(しかしところどころ「?」となるような)ゾンビものの物語だ。
そして、ゾンビになった人間たちを一人の女性が逆に殺していき、最終的に人間を含む全員を殺してしまう、というところで、「はいカット!」となる。つまり、映画内の映画であることが明かされる。
その後、「一ヶ月前」のテロップとともに時間が巻き戻り、「さっきの映画ができたいきさつはこんな感じなんですよ、さっきの映画で「?」となっていた箇所の裏にはこんな話があったんですよ」というネタバレが繰り広げられるのだ。
映画は大きく3つのブロックで構成されている。だいたいこんな感じだ。
- 第一幕:冒頭30分(「映画内映画」パート)
- 第二幕:中盤30分(第一幕のネタばらしと第三幕に向けた伏線仕込み)
- 第三幕:後半30分(「映画内映画」の裏側)
それぞれ内容を見てみよう。
1 第一幕:冒頭30分
「映画内映画」。廃墟でゾンビ映画を撮っているクルーが、本物のゾンビに襲われて一人ずつゾンビになっていく。最後に、人間がゾンビを駆逐する。
そしてその映像が「One Cut of the Dead」という映画だったことが明らかになる。
2 第二幕:中盤30分
時間が冒頭30分から一ヶ月巻き戻り、冒頭30分の映画が、どのようないきさつで撮られることになった映画なのかの説明が描写される。
その後、「One Cut of the Dead」に登場する役者たちの特徴、癖、経歴などが描かれる。
3 第三幕:後半30分
冒頭30分で描かれていた「One Cut of the Dead」の裏舞台が、種明かしされていく。
「One Cut of the Dead」の鑑賞の中で感じた違和感が、笑いとともに一つずつ明らかになる。
使われているテクニック
「カメラを止めるな」では、ざっくりと以下のテクニックが使われている。
- 叙述トリック
- 伏線
- 冒頭と最後で同じものに違う意味を持たせる
- 読者と登場人物の持っている情報量のギャップ
それぞれどこでどのように使われているのか、説明していこう。
叙述トリック
この作品の大きな特徴は「叙述トリック」の技術が使われているところだろう。
叙述トリックは、「登場人物をだまさない&読者(視聴者)をだます」ことで成立する。「カメラを止めるな」の冒頭30分の描写は、この基準を満たしている。
視聴者は、最初の30分を、(映画内映画ではなく)本当にそれが映画であるように見る。作者は、視聴者がそれを本編と錯覚するように描く。すなわち、作者は、視聴者をだます意思がある。
しかし、登場人物たちは違う。冒頭30分の映像は映画内映画で、スクリーンの登場人物たちはそれが映画内映画だと自覚したうえで、演じている。
その後、第二幕として冒頭の30分が叙述トリックだったことのネタバレが行われる。
どこぞの女性プロデューサーが、30分ワンカットのゾンビ映画を生中継で撮ろうとしていることと、その無茶な企画の監督を探していることが語られる。
そして、その監督役として白羽の矢が立ったのが、30分のワンカットゾンビ映画で実際に監督役として演技をしていた人物、ということになる。
叙述トリックについては「小説家が駆使する「四種の嘘」とは?」と「叙述トリックの作り方」で触れているので、ぜひそちらも参照してもらいたい。
伏線
二幕では、伏線の技術が多用されている。伏線については「小説家はどんなことを考えながら伏線を張っているのか」でも触れているので、そちらも後でぜひ読んでもらいたい。
二幕で多用されているのは主に「トラブル誘発型」の伏線だ。芸人の「押すなよ、押すなよ」の類似型だと思ってもらえれば良いだろう。
ここでは、第三幕で多発するトラブルが「起きるべくして起きたのだ」ということを納得させるため、伏線を張る作業が入念に行われる。
そしてそれは同時に、冒頭30分のゾンビ映画で時々にじみ出していた違和感とか異常さとか凄みが、どのようにして生まれたのか、その説明を第三幕で行うための伏線でもある。
例えば、冒頭の30分でヒステリックな映画監督役をやっていた男性が、穏やかな、ノーと言えない映像ディレクターであることが描かれたり。
例えば、冒頭の30分でメイク役として出ていた女性が、映像ディレクターの妻で、昔は女優だったり。
例えば、そんな二人の子供は、冒頭30分の映画の主演男優のファンであることが描かれたり。
例えば、冒頭の30分でいきなりゾンビとして現れた男性が、アルコール依存症であることが描かれたり。
例えば、冒頭の30分で主演女優をやっていた女性が、監督を舐め気味のアイドルとして描かれたり。
例えば、冒頭の30分で主演男優をやっていた男性が、作品に口を出す面倒臭い男優として描かれたり。
例えば、冒頭の30分で謎の行動を取っていた男性が、軟水しか飲めない人間として描かれたり。
例えば、冒頭の30分の映画を実際にとっていたカメラマンが、腰痛持ちであることが描かれたり。
例えば、冒頭の30分に出ていなかった監督役の男性とメイク役の女性が、不倫関係にあることがやんわりと描かれたり。
それらが伏線として描かれ、そして第三幕でその伏線が回収される。というか、伏線が予想通りにことごとく爆発し、トラブルが波状攻撃をかけてくる。
例えば、視聴者の頭の中では「どうして冒頭30分で役者をやっていた人と、第二幕で紹介されている役者陣が違っているのだろう」という疑問が二幕を通じて浮かんでいるのだが、どういう経緯でそうなったのかがこの三幕で明らかになる。
不倫関係にあった映画監督役の男とメイク役の女性が、一緒の車で来ているところ、事故にあってたどり着けないから、仕方なく映像ディレクター自らが監督役として名乗り出た、という話だ。
そして、偶然その場にいた監督の妻(娘が主演男優のファンなので、撮影現場を家族で見学に来ていた)がメイク役として抜擢され、冒頭の30分のキャストの布陣が完成する。
カメラが回り始め、監督役に急遽なった監督は、今までの鬱憤を晴らすように監督舐め気味の女優と面倒臭い男優にアドリブ混じりでヒステリックにあたる。
二幕でのアイドルのいけ好かない態度や、男優の面倒くさい振る舞いは、この監督のヒステリックな演技にカタルシスを与えるための伏線なのだ。
その後も、冒頭の30分におけるある男性の謎の行動(ゾンビがいて危険なはずの外に、「ちょっと…」と理由も脈略もなく出ていく)が、腹痛によるものだと判明したり、冒頭30分の謎のカメラワークの理由が、カメラマンの腰痛によるものだと判明したりと、第二幕で仕込んだ伏線を破裂させながら、物語はトラブルにまみれていく。
そして、トラブルの都度、監督やスタッフはやっつけでどうにかしながら、カメラを回し続ける。監督やスタッフが必死に立ち回れば立ち回るほど、その滑稽さが浮き彫りになる。
(必死さが笑いを生む仕組みについては、別の機会で語りたいと思う)
そんなこんなで冒頭30分の映像は、その裏側ではとんでもないトラブルの連続の上に成り立っていた、ということがこの三幕で明らかになるわけだ。
冒頭と最後で同じものに違う意味を持たせる
使われている物語技法はまだある。冒頭と最後で同じものに違う意味を持たせる、というテクニックも、この作品では使われている。
「冒頭と最後で同じものに違う意味を持たせる」とは何かについては「小説家がどうってことない言葉を輝かせる方法」で説明しているので、未読ならぜひ後で読んでもらいたい。この「カメラを止めるな」はその映像版だ。
冒頭30分の「One Cut of the Dead」と、第三幕の30分は、言ってしまえば同じものだ。しかし、二幕を挟むことで、全然別の意味を帯びてくる。
全編を通じて、一つの映像に、冒頭と最後で違う意味を持たせている。
特に象徴的なのが、冒頭30分の最後のシーンだろう。
冒頭30分の最後、一人の女性が魔法陣の上に立っているところを、クレーン撮影し、そこにエンドロールがかぶる、というシーンがある。
これは実は、撮影中にクレーンが壊れ、上から撮影することを泣く泣く諦めたけれど、どうにかそれを撮りたいと思っていた監督の気持ちを汲み取った監督の娘が知恵を絞り、クルーが一丸となってクレーン撮影もどきをどうにかこうにか実現した、という裏がある。
最後の種明かしで、単なるクレーン撮影に、その映像に、命が吹き込まれる。
最初見た時にはどうってことなかった映像が、裏舞台から映されることで、意味を持ち、輝かしいシーンに化けるのだ。
読者と登場人物の持っている情報量のギャップ
もう一つ、使われているテクニックを紹介しよう。
この作品では、読者(視聴者)と登場人物の持っている情報量のギャップを利用した感情操作のテクニックが使われている。
どういうことか。
「生放送でワンカットのゾンビもの」というものを企画した女性プロデューサーは、その生放送を見ている最中、何も違和感に気づかず、放送が終わった時に「トラブルもなく無事に終了してよかったよかった」といった具合に締める。
もちろん、視聴者は撮影の前も最中もひっきりなしにトラブルが発生していたことをよく知っている。
しかし、この女性プロデューサーはそのドタバタの裏舞台を知らない。
ここに、僕たち視聴者と、登場人物の間に、情報量の格差が生まれる。
そして彼女の発言を聞いて思うのだ、「やれやれ、人の気も知らないで(笑)」と。
このように、「読者と登場人物が持っている情報のギャップ」を意図的に作り出すことで、ユーモア(呆れと苦笑い)を生み出す手法を利用している。
「読者と登場人物が持っている情報のギャップ」がもたらす効果については、先に紹介した「小説家が駆使する「四種の嘘」とは?」に加え、ぜひ「切なさの作り方」「小説家はいかにして読者をハラハラさせるか」を参照してもらいたい。そこに詳しいテクニックを記してある。
(「読者と登場人物が持っている情報のギャップ」はユーモアや苦笑いだけじゃなく、切なさやハラハラやニヤニヤをも生み出すことができる万能薬だ)
おわりに
そんなこんなで、色々なテクニックを駆使して作られた「カメラを止めるな」。理屈っぽく色々書いているけれど、難しいことを考えず、純粋に楽しめる映画だ。
特に監督役の役者さんは最高かよ!
ぜひ楽しんでもらいたい。
ライトノベル作家。
商業作家としての名義は「くれあきら」とは別。今は主にブログで小説にまつわるアレコレを配信中。デビューから商業作家時代の話を「今、小説家になるために必要なもの(1)」に書いてます。