バディ(相棒)ものを書くときのポイント

バディ(相棒)ものの小説を読んだことはあるだろうか。二人組の凸凹なコンビが一つの事件を解決するような物語がそれにあたる。

このエントリでは、バディ(相棒)ものの小説を書くにあたっての注意点・ポイントを記してみようと思う。

バディものの大きな特徴

バディ(相棒)ものの小説をいくつか読んでみると、ある共通点を見出すことだろう。

その共通点とは、バディ(相棒)ものの物語では、必ずと言っていいほど相棒の二人は仲違いをする、あるいは、最初っから最後まで仲違いをし続けている、ということだ。

なぜだろうか。

なぜ、彼らは決まって仲違いをするのだろうか。

もちろん理由がある。それについて説明をしていこう。

仲違いをする理由

バディ(相棒)ものの小説では、必ずと言って良いほど相棒の二人は仲違いをする(あるいは、している)。AはBのやることが気に入らないし、BはAのやることに敬意を払わない。

なぜだろか。

身も蓋もない言い方だが、そうした方が面白いから、小説家はそうしているのだ。

では、何がどう面白くなるのだろうか? その理由はなんだろう?

仲違いをさせる効果

仲違いをさせる理由を考えるにあたり、「もし仮にバディものの二人組が仲良しだったら?」ということを想像してみると、答えは一層明白になる。

常に協力しあっている仲良しの相棒同士が最後の最後に協力しても、協力するという行為自体に感動は生まれない。彼ら(相棒同士)はいつも通りに協力しているだけ、と読者の目に映ってしまう。

しかし、これが常に対立している二人であれば? 最後のバディの協力が物語の展開に特別な効果をもたらす。希少価値の高いその協力シーンが、物語に一層の感動をもたらすのだ。

バスケ漫画「スラムダンク」が最も分かりやすく、かつ、最高の例だろう。

最終巻、物語のクライマックス。

最後の試合、主人公の桜木花道に今まで一度もパスを回さなかったエース流川楓が、最後の最後にパスを回し、そして桜木花道がゴールを決める。

そして、今までタッチを徹底的に拒んでいた二人が、ついに向かい合ってタッチをする。

いがみ合っていた二人が協力してことを成し遂げるというシーンを描いた物語の中で、もっとも素晴らしいシーンだ。

これ以上の相棒もののシーンを、僕は知らない。

協力が感動を生み出す理由

仲違いをする二人が協力することが感動をもたらす。

となると、ではなぜ人はこうした協力プレイに感動を覚えるのだろうか。

二人が個別に敵を倒して最終的に相対する組織を倒すのと、いがみ合いながらも最後のボスを協力して倒すのでは、全然意味合いが違う。

なぜ僕たちは、人と人が協力するシーンに感動を覚えるのだろうか。

おそらく、協力とは、信頼が前提にあるからだろう。

主人公と同化した読者は、普段いがみ合っているバディから信頼されることで、相手に認められたいという「自己承認欲求」が満たされるのを感じるのだ。

だからこそ、普段いがみ合っている相手から認められ、信頼されるという事態に、一層の価値を感じる。それが、たとえどんなに一瞬の出来事だとしても。

小説家たちは、そんな理由でバディ(相棒)たちを仲違いさせる。

徹頭徹尾仲違いさせる場合もあれば、徐々に近づいたのちに大げんかをして仲違いさせる場合もある。

どんな場合であれ、仲違いののちに、最後は共通の敵を倒すために協力をする、という筋書きをなぞることになる。

相手を認める理由

最後の瞬間、バディ(相棒)は相方(自分)を信頼し、協力する。

そのとき、バディ(相棒)が相方(自分)を信頼するに足る人物であると判断した理由を、描いておく必要がある。

例えば、相手から信頼される前に、主人公側から先に相手を信頼してみせたり。

あるいは、相手と自分の思いが一緒であることを示したり。

どんな方法であれ、自分が信頼するに足る人物であることを示したうえで、信頼をさせることで、納得感のある協力を描くことができるようになるだろう。

先の漫画「スラムダンク」の例で話をしよう。

流川楓はゲーム終了数秒前、逆転を目指して敵のゴールへと切り込む。ジャンプをしてシュートを放とうとしているが、ブロックの壁が何重にもなっていて厚い。無理だ、どうしたって打てない。

その時、チームメイトでいがみ合っていた桜木花道が目に入る。花道にボールを渡すか、このまま押し切るかーーそんな時、花道は冷静な顔で言う。

「左手はそえるだけ」

これが、流川が花道を信頼するに至った言葉だ。

この「左手はそえるだけ」は、バスケ初心者だった花道が、少しでも上達をしようと夏休みをかけて放った何万本もの(普通の)シュートの際に唱えてきた言葉である。

つまり、読者からすると、この言葉は「桜木花道の地道な努力の証」だ。

花道はこの瞬間、持ち前の長身と跳躍力で派手にスラムダンクを決めることもできたかもしれない。いつもの調子で「天才ですから」と大口を叩きながら、できもしない技に挑むこともできたかもしれない。

しかし、そんな派手さに走らず、花道はあえて普通のシュートでゴールを取ろうと示した。今まで積み重ねてきた地道な努力の成果で、ゴールを取ろうと示した。

基礎の大事さを、努力の大事さを学んだからこそ、それで確実に決めることを意思表示した。バスケットボールプレイヤーとしての成長を、ここで示そうと決意した。

そして、そんな花道に、流川は応えて、ボールを預けた。

バスケットボールプレイヤーとしての桜木花道を信頼して、今まで努力を積み重ねてきた桜木花道の基礎の力とその成長を信頼して、ボールを預けた。

ダンクができるだけの男ではなく、バスケに全力を注いでいる仲間として、ボールを預けた。

あの場面で放たれた「左手はそえるだけ」は、そういう一言なのだ。

この「左手は添えるだけ」のセリフ以前は、数十ページに渡ってセリフというセリフが紙面上に出てこない。それは、「左手はそえるだけ」の一言が、それだけクローズアップされるべき言葉だからだ。

もし、漫画「スラムダンク」を見ていない人がいるとしたら、見た方が良い。バディものの真骨頂が、ここにあるーーもっとも、漫画「スラムダンク」自体は、バディものというわけでもないのだけれど。

おわりに

バディものは非常に強い感動を生み出す。いがみ合っている時間が長ければ長いほど、最後の協力の感動が強くなる。

仲違いの理由と、その後の信頼の理由を明確にしたうえで、納得感のある協力シーンを描き、バディものの物語に一層の感動を盛り込んでみてはいかがだろうか。

バディものの小説を書くことは、キミの小説執筆ライフを豊かなものにするはずだ。

活用されたし。