主人公に感情移入するということについて

amazonなどで小説の感想を見てみると、時々「主人公に感情移入できなかった」とか、あるいは「主人公に共感した」とか、そんな言葉を目にすることがある。

小説においては、主人公に感情移入できるかどうかは、その小説の評価を左右する大きな要素になる。少なくとも、感想欄に記載するだけの関心ごととして、ある種の読者たちには捉えられている。

今回はそんな「感情移入」について取り扱ってみよう。

果たして、プロの小説家や編集者は、この「感情移入」というものについてどのように向かい合っているのだろうか。

感情移入できる・できないを語る前に

まずはじめに言っておくことがある。僕は今の今まで一度も「感情移入」を意識して小説を書いたことはない。

そして、僕が編集者と話をする中でも、「感情移入」という言葉も、それに類するようなキーワードも、一切出てこなかった。

なぜだろう。

僕が特殊だから? 別にそんなことはない。

共感とか感情移入というのは、物語が進んでいく中で、読者に生まれる「結果としての感情のうちの一つ」に過ぎないからだ。

常識的な行動をとり、キャラクターの性格を説明し、その上で行動を取らせる。その結果、読者が「自分と近い、自分でもそうする、そうしたいと思う」と思えば、読者は主人公に共感をする。

自分と違うけれど「たしかに、このキャラならこう言うことを思いそうだな、こういう行動をしそうだな」と納得できるものであれば、共感は呼ばずとも、引っかかりなく物語を楽しんでもらうことができる。

感情移入をできなくても、物語はまかり通るのだ。

感情移入を採用する時の注意点

感情移入は、物語を次のような方法で組み立てていった結果として、読者の心の中に生まれるものである。

  1. その本を手にするであろう読者のペルソナと近しい主人公像を用意する。
  2. その読者たちの大部分が行うであろう行動を、納得できる理屈でとる。

この方法を採用して作品を作ると、ちょっとした注意点が生まれる。物語も主人公も、より平凡なものになる傾向が出てくるのだ。

通常、非凡な物語は、非凡な主人公が舵を切る。

漫画「ドラゴンボール」の悟空が「おめえつええな、ワクワクすっぞ」と言う気持ちは共感を持って受け入れられているだろうか?

漫画「ONE PIECE」でルフィが「海賊王に俺はなる」と息巻いている姿に、誰が感情移入しているだろうか。

僕は村上春樹の小説の主人公に、共感などしない。一ミリだってしない。しかし作品は間違いなく面白い。

西尾維新の小説もそうだ。一切の共感を寄せ付けない主人公たちだが、それでも彼らが紡ぎ出す物語は魅力に溢れている。

別に構わないのだ。読者とシンクロなどしなくても、それで良い。

一つの結果としての感情移入

感情移入は、できるだけ読者に楽しんでもらうために小説家たちがあれこれ考えた末の、一つの結果にすぎない。

もう少し言うと、読者を楽しませる方法として、小説家が取る一つの生存戦略のうち、最も無難で反感を買わないマイルドなもの、と言えるだろう。

その生存戦略(=読者と近い主人公を用意して、多くの読者が考えるであろう思考をし、多くの読者が納得する理由で、現実的な行動を取るように、主人公に仕向ける)を採用した小説のうち、見事読者とシンクロした小説に、「共感できる」「感情移入できた」の称号が与えられるのだ。

それ以外の生存戦略を取っている小説家からすると、感情移入などハナから考えていない。ダイナミックな物語展開やユニークなキャラクターを登場させた瞬間、「共感できる主人公を」なんて概念は吹き飛ぶ。少なくともそれを求めて小説を書こうとは思わない。

僕もそうだが、大多数の小説家は、読者に共感など求めていない。編集者でさえも、だ。

こと、少年向けラノベでは、特にそうだ。

逆に、少女漫画や少女向けラノベは「感情移入」を重視していそうな気もするけれど。

おわりに

というわけで、感情移入に関する話を書いてみた。

もしキミが書いた小説に対して、誰かが「感情移入できない」と言ってきたとしても、それに悩む必要はないかもしれない。感情移入なんて(多分多くの)プロの小説家は気にしていないし、そんなものがなくても面白いものはいくらでも書ける。

ただし、共感できる・感情移入できる小説を書きたいと思っているのであれば、そこは主人公と読者を徹底的にシンクロさせる努力をした方が良いだろう。

もっとも、残念ながら僕にはその努力をどうやって行えば良いか、答えはないのだけれど。

活用されたし。

ライトノベル作家。
商業作家としての名義は「くれあきら」とは別。今は主にブログで小説にまつわるアレコレを配信中。デビューから商業作家時代の話を「今、小説家になるために必要なもの(1)」に書いてます。