キミの小説の文章をプロっぽく見せる3つの方法

ここに、あるプロットがあるとしよう。なんの変哲も無い、可もなく不可もなくな、どうってことないプロットだ。桃太郎や浦島太郎のような昔話でもいい。

そのプロットを実際の小説に仕立て上げるとした時、素人とプロではその仕上がりに大きな差が生まれる。身もふたもない話をすれば、同じプロットでも、プロが書いたものは「プロっぽい仕上がり」になる。

この違いはなんだろう。今回のエントリでは、それについて語ろうと思う。

果たして、プロはどのような味付けを文章に対して行なっているのか。どのようにすれば「プロっぽい仕上がり」になるのか。

プロっぽい/プロっぽくないとは

「プロっぽい仕上がり」と「プロっぽくない仕上がり=素人っぽい仕上がり」は表裏一体だ。違いを言えばズバリこれに尽きる。

サービス精神が旺盛なのか、それとも欠けているか。

どういうことか。

たとえば「素人っぽい仕上がり」の文章の特徴をあげてみると、だいたいこんな感じだろう。

  • 説明が少なくて、状況が分からない。
  • 文章が複雑(難解)で、内容が頭にスッと入ってこない。
  • 文章が単調で、飽きる。
  • 文章が説明的で、つまらない。
  • どうでもいいものも細かく説明してあったり名前がついていたりしていて、覚えるのが大変。
  • 話があっちこっちに飛んでいて、頭が追いつかない。

これらはすべて、「サービス精神=読者を思いやる配慮」が欠けていることに起因している。

もちろん、スキル不足のせいもあるだろうが、根底にあるのはマインドセットの問題だ。素人っぽい仕上がりの文章は、読者に意識が向いていない。

プロっぽい仕上がりにする3つのポイント

では、プロっぽい仕上がりの文章にするためには、どんなポイントに注意を払えばいいのだろうか。ズバリ以下の3つだ。

  1. 出す情報/出さない情報に気をつかえているか
  2. 情報を出す順番に気をつかえているか
  3. 単調にならないように気をつかえているか

料理に例えていうなら、

「食材の選択に気をつかい」(出す情報/出さない情報に気をつかい)

「調理の手順に気をつかい」(情報を出す順番に気をつかい)

「盛り付けに気をつかう」(単調にならないように気をつかう)

これらができているかどうかで、プロっぽい/素人っぽいが決まってくる、ということになる。

それぞれ説明をしていこう。

出す情報/出さない情報に気をつかえているか

情報を出す/出さないに対して気をつかえているかどうかをチェックするポイントは以下の二つだ。

  1. 余計な記載
  2. 説明不足の箇所

では、見ていきたい。

余計な記載

余計なものが多いと、つまり情報過多だと、文章に素人っぽさがにじみ出しやすくなる。

例えば、その場面でしか出てこないアイテムやキャラに名前をつけたり、目的もなく風景やガジェットやキャラを描写したとしよう。読者はそれが重要な情報なのではないかと無意識のうちに思い込んでしまい、記憶しようとする。

だが、小説家が熱心に描写したそれ・・が実際にはストーリー上で重要でないとすると、結果として読者を疲れさせることにつながる。

固有名詞も気をつけた方が良い。あるアーティストの曲がとても素晴らしく、そしてキミが作品に登場させたいと思ったとしても、読んでいる人はそのアーティストを知らない。知らないし、興味もない。基本、登場させるべきではない。

説明不足の箇所

余計な記載が多いと素人っぽさが出てくるが、逆に説明が不足していても、素人っぽさが出てきてしまう。

説明が不足していると、読者の頭には「?」が浮かんでしまう。読者の頭に「?」を浮かべさせること自体が問題なのではない。それをケアしないことが問題なのだ。

今、主人公はどこにいるのか、どんな気分なのか、何を考えているのか、何が見えているのか、どこに向かおうとしているのか、どこからきたのか、そもそも主人公は何者なのか。

意図的に隠しているなら、それでも良い。ただし、そのクエスチョンが後々解消されることが読者に明らかにされないと、不快なモヤモヤを抱えながら読者は読み進めることになる。あるいは、「この物語は意味不明だ」と、読むことを止める。

読者に期待をさせる、でも不快なストレスは与えない。それができていない文章は、「素人っぽい」と認定されてしまう。

ちなみに、名探偵シャーロックホームズの傍にいるワトソンは、この「キミは今こういうクエスチョンを持っているよね」を明らかにするために存在している。要するに読者の代弁者なのだ。

「おいホームズ、どうしてそれがわかったんだ」「これこれからですよ」「なるほど、でもどうしてそれに気づいたんだ」「それはこれこれですよ」そんな調子だ。

ワトソンがいなかったら、読者はなぜ謎が解けたのかどころか、謎が解けたことさえわからないかもしれないのだ。

お笑いのツッコミは、「今のはボケです、笑うところです」ということを明らかにし、どういう意味のボケだったのかを種明かしするために存在している。それと同じだ。

土地の名前を出すときには、一言その場所がどんな場所なのかを触れておいた方が良い。東京に住んでいる人なら表参道といえばどんな街かイメージできると思うが、地方の人には伝わらないだろう。「若い女子が行き交う、おしゃれなショップがならぶ街」くらいの説明はしておくべきだ。

情報を出す順番に気をつかえているか

どんな情報を出すのか、出さないのかに加え、どのような順番でその情報を登場させるのかも、非常に重要である。情報を出す順番がちぐはぐだと、素人っぽさがにじみ出す。

例えば、キミが美容院で髪を切ってもらうとしよう。普通は「今日はどうされますか」と聞かれ、オーダーをするとそれに向けてざっくりとした散髪が始まり、もみあげや後ろを整え、髪を洗い、そして最後に微調整、というのが一般的な流れだろう。

これが、髪を洗ってからオーダーを聞かれ、もみあげや後ろを整えた後に、トップをざっくり切っていくような美容師さんがいたら、「?」となるはずだ。そして「このまま進めてもらって大丈夫なのかな」と疑心暗鬼になり、そわそわしてくるんじゃないだろうか。

文章も同じで、情報の出し順が気持ちよくないと、読者はそわそわを覚える。プロの文章が情報の出し方がしりとりのように連鎖的で滑らかなのに対し、素人っぽい文章では、情報の出し方にちぐはぐ感とギザギザ感があり、文と文の間にざらつきが存在している。

あるいは、あえて最初に「何が起きているんだ?」と思わせる順番で情報を出して、読者の興味を引くテクニックもある。

これも、比較的早い段階でその事件のいきさつを明らかにした方が良い。そうしないと、読者は一向に答えが明らかになる気配がしないことにストレスを感じ、読むことをやめてしまうかもしれない。

情報を出す順番のテクニックについては、別エントリを設けてそこで詳しく述べるとしよう。

単調にならないように気をつかえているか

単調になる/ならないのチェックポイントは、以下の二つがあげられる。

  1. 文章上での単調さ
  2. 表現上での単調さ

見ていこう。

文章上での単調さ

しかるべき情報を、しかるべき順番で出したとしても、「〜した」「〜だった」と語尾が同じ文章が続いたり、会話と地の文が毎度交互に書かれたりしていると、読者はそれを単調に思い、素人っぽさを感じ取ってしまう。

高速道路が眠気防止のためにあえて曲がりくねっているのと同じ要領で、文章も単調さを回避するためにちょっとカーブを入れるべきだろう。

二つ三つ「〜した」「〜だった」と連なったらダメ、なんて目くじらを立てる必要はないけれど、読んでいて単調さを感じたり、センスのなさを感じたりしたら、言い直しや言い換えをした方が良い。

表現上での単調さ

先に述べた、文章の表面的な工夫に加え、比喩表現などについても工夫をし、読者を楽しませることを心がけた方が良いだろう。一ページに一つくらいは、気の利いた表現があっていい。それが読者を飽きさせないための「高速道路のカーブ」になる。

村上春樹の短編に、スパゲティを茹でるだけの話がある。事件なんて起きない。起きないどころか、事件が起きそうになったら(謎の電話がかかってきたら)「今スパゲティを茹でているんだ」とぶった切ってしまう。面白くなりそうな事件の芽を潰してしまうのだ。

それでもなお、面白い短編に仕上がっている。それは、村上春樹が用意したカーブと、最後に効かせたスパイスの見事さのおかげだろう。

上手い作家の手にかかれば、学校から家までの道のりの説明でさえ、見事なまでのエンタテイメントになる。

キミはキミの帰宅路をエンタテイメントにできるだろうか?

プロならみんな「できる」という。

それが仕事だからだ。

おわりに

素人っぽさは、文章をちょこっと直せばどうにかなる、というものではない。素人っぽさの根底には、サービス精神の欠如が横たわっているからだ。ちょこっと直しただけで格段によくなるケースもあるだろうが、それはむしろ例外だと考えた方が良い。

いかに相手に楽しんでもらうか、いかに相手に気持ちよく読んでもらうか、そうした相手を思いやる気持ちが、「プロっぽい仕上がり」の文章につながっている。

キミが自分の文章に素人っぽさを感じているなら、小手先の技術もさることながら、読者を思いやるサービス精神に磨きをかけてみるといい。もちろん、一朝一夕で身につくものではない。けれど、意識をし続けていれば、やがてキミの文章は格段に素晴らしくなる。

活用されたし。