小説を読んでいて、「はてな?」と思うような奇妙な設定、もっと言ってしまえば、いびつな設定に出会ったことはあるだろうか。
今回のエントリでは、そうしたいびつな設定について記してみようと思う。
ひょっとしたら、このエントリを読めば、小説の中のいびつな設定を見つけるたびに、その小説のことが分かるようになるかもしれない。
目次
いびつな設定はなぜ存在するか
小説の中には、「ちょっと違和感があるな」という設定や、「ちょっといびつだな」と思える設定が紛れ込んでいることがある。
ちょっと具体的な作品で見てみよう。
「ビブリア古書堂の事件手帖」の場合
例えば、昨今映画になった(そしてドラマや漫画などのメディアミックスが散々されている)三上延の小説「ビブリア古書堂の事件手帖」。
この作品では、主人公は本を読むと気分が悪くなり、めまいがして倒れるような特異体質を持っている。そしてそんな主人公が、就職ができなかったという理由で古本屋で働くことになる。
さて、どうだろう。現実だったらなかなかない状況だ。
血を見るのが嫌で、血を見ると気分が悪くなって倒れてしまう人が、外科医やその他の血を扱う職業につくだろうか。たとえ仕事がなかったとしても、まずつかない。
「氷菓」の場合
短編連作的な日常系ミステリーの流れでいうと、米澤穂信の小説「氷菓」にも奇妙な設定がある。こちらも少し見てみよう。
この小説は、高校生になる一人の少年が主人公で、彼は徹底した省エネ主義を貫いている。面倒なことはやらない。やるとしたら最小限に抑える。
そんな主人公が、世界一周をしている最中の姉(武術をやっている)に手紙で「古典部に入りなさい」と言われて、すんなりと入るのだが、果たして自分だったら入るだろうか。
古典部に入らないと姉から武術で暴力を振るわれるとしても、自分のペースを重視するような省エネ人間が、そんな一瞬の痛みと引き換えに、部活を決めるだろうか。
現実であれば、そんな省エネ主義の男子高校生は、別の理由がない限り古典部には入らない。
なぜいびつさを盛り込むか
もちろん、ここで記したいびつな設定というのは、あくまでも程度の問題なので、別に違和感もいびつさも感じないという人もいるだろう。
でも、見る人が見れば、この設定にはいびつさが見て取れる。そして当然、書いている当の本人も、そのいびつさを百も承知で書いている。
では、なぜ小説家は、そんないびつなものを物語に盛り込んでくるのだろう。
その設定を利用して何かがしたいからだ。
小説家たちがしたかったこと
小説家たちが、いびつな設定を作品に盛り込む理由は、その後の話を読んでいけば、自ずと明らかになる。
「ビブリア古書堂の事件手帖」の場合
「ビブリア古書堂の事件手帖」では、ヒロインが主人公に本の内容を話して聞かせる場面を描きたかったからだ。
主人公が本を読めない人間なら、その内容をヒロインが話して聞かせるというシーンを、毎度違和感なくおきまりのように差し込みやすい。
これにより、二人の男女の関係を親密なものにさせることができるという効果もあるが、さらに重要なのは、読者に本の内容を伝えることができる、ということだ。
「ビブリア古書堂の事件手帖」は、その物語の特性上、色々な本が出てくる可能性がある。どれだけ有名な古典を取り扱うにしても、その内容を知らない読者はきっといる。
なので、誰でも知っているような古典の内容を作中で説明することが許されるようなもっともらしい下地を、物語の中に用意する必要があった。
加えて、「主人公、本読めよ。そうすれば解決するだろ」と読者からツッコミをうけるような状況も、物語の特性上存在しうるため、これに対する予防線を張る必要もあった。
だから、「ビブリア古書堂の事件手帖」の主人公は、本が読めない人間の方が都合が良かったのだ。
「氷菓」の場合
「氷菓」の場合はどうだろう。なぜ主人公は古典部などという部に入ったのか。
こちらはもう少しシンプルだ。古典部に入らせることでヒロインと出会わせたかった。そして事件を起こし、物語を進めたかった。
だから、主人公を部に入れるために、姉貴が武術の達人で、などという適当な言い訳をひっつけたわけだ。
小説家がいびつな設定を入れる理由
そう。
端的に言えば、小説家たちは、何かをしたいがために、いびつな設定を設ける。
それを使ってさらに大きな何かをするために。
それを使って物語を進めるために。
いびつな設定の裏側には、小説家の思惑が隠れているのだ。
いびつさと天秤にかけられるもの
ある種の小説家は、こうしたいびつさを自作の中に内包させつつ、小説を書く。たとえいびつさがあったとしても、そのまま突き進むことを選ぶ。
なぜか。なぜいびつさを放置して進むのか。
そうした作者たちは、「読者はそれくらいのいびつさを受け入れることができる」ということを知っているからだ。いびつさを受け入れたその先の世界が面白いものに仕上がっていれば、そのいびつさをかき消すことができるということを知っているからだ。
そのいびつさと、いびつさの言い訳をする回りくどさを天秤にかける。そして、「回りくどいよりもいびつなほうがマシ」という選択をする。
そして、今度はいびつさの排除と面白さを天秤にかけ「いびつさがあっても面白さを追求しよう」という選択をする。
そんな風に小説家が割り切ることで、いびつな設定の物語が生まれるのだ。
もちろん、小説家によっては、その見極めをせずに都合よく設定を盛り込んでいるだけの場合もある。
未熟な小説家であれば、「アイデアが浮かばないから」という理由で、安易にその変な設定を盛り込んでいるかもしれない。
それは、その後ろの小説を読めば、だいたい分かる。割り切った結果のいびつさなのか、それとも未熟さゆえのいびつさなのか。
おわりに
小説の中にいびつな設定が入っていたら、その設定の裏側には小説家の大いなる思惑が隠されている。
そしてそれは、そのいびつさを受け入れたとしても、それでも盛り込むべき重要な要素なのだ。少なくともその小説家にとっては、それほど重要なものなのだ。
色々な作品を見て、そうしたいびつさに出会ったら、どうしてその小説家はそんな設定を盛り込んだのだろう、と考えてみると良い。
きっとその設定がなければ成り立たないような大きな仕掛けが、後に控えているはずだ。
そしてその裏側にある仕掛けこそが、その小説を、その物語を面白く、魅力的にしているエンジンだ。
キミの作品にいびつさがあるなら、そのいびつさの理由をあれこれ言い訳するよりも、いっそ無視してそのまま突っ切ってしまった方が良いかもしれない。文字数は限られているし、読者はそんな言い訳に耳を貸すほど暇じゃない。
それよりも、言い訳を少なくした分だけユニークな描写の一つでもいれた方が良いだろう。読者は小説家の言い訳を読むために本を読んでいるわけじゃなく、あくまでも面白さを求めて本を読むのだから。
もっとも、プロとして出版社から本を出す場合、編集者がそれを許すかどうかはまた別の話としてあるのだけれど、それを振り切れるくらいの面白さがその後の展開にあればそれでいい。
活用されたし。

ライトノベル作家。
商業作家としての名義は「くれあきら」とは別。今は主にブログで小説にまつわるアレコレを配信中。デビューから商業作家時代の話を「今、小説家になるために必要なもの(1)」に書いてます。