切なさの作り方

小説を読んでいて、切なくなってしまったことはあるだろうか。あるとすれば、その切なさの裏には、きっと小説家の工夫が隠れている。

今回は、それについて語ろうと思う。はたして、切なさはいかにして作られるのか。

ちなみに、今回の記事を読むにあたっては、「小説家はいかにして読者をハラハラさせるか」を先に読んでもらった方が良いかもしれない。ハラハラと切なさは、同じ成分でできているのだ。

では、いってみよう。

そもそも切なさとは

そもそも、切なさとはどういう感情だろうか。

例えば、子供の頃、好きな女の子に対して抱く気持ちとか。

あるいは、大切な人を悲劇的な形で失った時に抱く気持ちとか。

切なさといえば、そういうものを思い浮かべるのではないだろうか。

おそらく、切なさの根底には、自分にはどうすることもできないやるせなさ、というものが横たわっている。

好きな人がいる。でも、その人は他の人が好きで、自分の力ではその人を振り向かせることができない。

大切な人がいた。でも、その人はあの悲しい事件のせいで、もうこの世にはいない。

そんな、絶対的などうしようもなさ・・・・・・・・・・・・が、切なさを生み出している。

単なる悲しさとは違う、どこか自分の無力さを悔やむような、そんなやるせなさが、切なさを作り上げている。

切なさの裏側にあるもの

切なさの根には、自分の無力さ、非力さが隠れている。

どうしようもなく欲している、しかし自分ではどうしようもない、そんな悲劇的な諦めが、裏に存在する。

となると、小説でそれを読者に味わってもらうために、小説家は何をすべきか。

それは、読者に無力感を感じてもらうことだろう。目の前で起きていることを、ただ無力に眺めているしかない、そんな状況を作り出すことが、切なさの演出に必要となる。

具体的な例をいくつか見ていこう。

「ローマの休日」の場合

ローマの休日は、オードリーヘップバーンを一代スターに伸し上げた出世作だ。

しかし、オードリーの美しさを愛でるだけの映画じゃない。この映画のプロットの見事さがあってこそ、彼女の素晴らしさが際立った。そう言って過言ではないだろう。

僕たちはこのローマの休日にある種の切なさを感じるのだが、ではこの名作はどうやって切なさを演出しているのだろうか。

一言で言えば、「視聴者と登場人物が持っている情報量のギャップ」だ。これを利用して切なさを作り出している。

説明をしていこう。

ストーリー

少し長くなるけれど、仕掛けを理解してもらうために、物語の全体像を記す。知っている人は読み飛ばしてもらって構わない。

「ローマの休日」のヒロイン、アン王女は、気が滅入るほどの公務に明け暮れる日々を過ごしていた。そんな日々の中、ローマに滞在している時、ついにストレスが限界に達し、街へと飛び出してしまう。

街のベンチで眠るアン王女を、王女と知らず仕方なく解放する羽目になった新聞記者のブラッドレーは、彼女が王女であると知ると、身分を隠して彼女に近づき、アン王女の休日をスクープ記事に仕立て上げ、金儲けを目論む。

彼女のご機嫌をとるため、ローマ見学に付き合うブラッドレー。しかし、時を経て二人の仲が近づくにつれ、彼の気持ちは揺らぐ。彼女の休日を記事にすることにためらいを感じるようになる。

一方、王女が消えたと大騒ぎの王室は、王女が急病であると偽りの情報を世間に公開しつつ、王女を追跡し、公務に連れ戻そうと躍起になる。そんな王室の追っ手をかいくぐって逃げる二人。

しかしそれでも限界がくる。戻らないといけないことを自覚したアン王女は、ブラッドレーと口づけを交わし、涙ながらに大使館へと帰る。

そして翌日。ブラッドレーは、王女に謁見する記者として、彼女の前に姿を表す。彼女とキスを交わした男としてではなく、あくまでも一介の記者として。

予定調和の、シナリオ通りのインタビューが進む中、「イタリアでの滞在で印象的だった場所は?」という質問をある記者から投げかけられたアン王女。

シナリオ通りに「どこも素敵で……」と言いかけた時、思いつめたように「ローマです」と答える。「ずっと病気だったのに?」という、ある記者からの追加の問いにも「それでも、ローマは忘れられません」とアン王女は返答した。

会見が終わり、王女はその場を去る。一人残ったブラッドレーも、やがてその場を後にした。

「ローマの休日」というのは、だいたいそんなお話だ。

仕掛け

最後の「それでも、ローマは忘れられません」とアン王女が言い放つシーンは、どうしようもない切なさを僕たちに与える。

なぜだろうか。からくりを見ていこう。

まず、視聴者は、何十分にもわたるデート描写のおかげで、アン王女とブラッドレーの淡いラブロマンスを知っている。二人がいわば相思相愛であると感じている。

しかし、最後の王女と記者の謁見のシーンでは、目の前に思い人がいる中、アン王女は王女として毅然とした態度を取らないといけない。視聴者もそれを理解している。

かたや、周りの登場人物たち、「イタリアでの滞在で印象的だった場所は?」と投げかけた記者たちは、王女と記者の一人がそんな仲であることなどこれっぽっちも思わない。

だから、「ローマが忘れられない」という答えに対して、その場にいる誰もが首をかしげるのだ。なぜなら王女はローマ滞在中はずっと病気だったことになっているのだから。

だが、物語をたどってきた視聴者は、アン王女の「ローマが忘れられない」という言葉の意味をよく理解している。何しろ、一時間も二人のラブロマンスを見てきたのだから。

なので、その理由を周りの登場人物たちに教えたい衝動にかられる。ジリジリとした想いにかられる。

が、もちろん、物語上の人物たちに対して、視聴者が何かを伝えることなどできない。スクリーンの向こう側に何かを伝えるなどできはしない。

スクリーンの向こうにいる人物は、言ってしまえば彼岸の向こう側の人物なのだ。あの世にいる人と変わらない。仮に伝えられたとしても、何も変わりはしない。

どうあがいても、どうすることもできない。彼らに真実を伝えることもできないし、伝えたところでどうしようもない。その無力感に、僕たちはどうしようもない切なさを感じるのだ。

エッセンス

少し長くなってしまった。エッセンスを取り出してみよう。切なさを紡ぎ出すのは次のステップだ。

  1. 視聴者は、主人公たちに関する事実を知っている。(二人が恋仲)
  2. しかし、他の登場人物たちはそのことを知らない。(二人以外の人間からすると、王女と単なる記者)
  3. でも、主人公たちは他の登場人物たちにその事実を明らかにすることができない。(王女がすべてを投げ打って新聞記者と愛の逃避行をするわけにはいかない)
  4. 視聴者としては、その事実を主人公たちに代わって登場人物たちに伝えてやりたい。
  5. しかし、物語上の人物に対して何かを伝えることはできない。伝えたところでどうにもならない。
  6. 結果、視聴者は自分たちではどうしようもないその状態に、切なさを感じる。

ポイントは二つ。

その1:何も知らない登場人物を出すこと。

つまり、情報の格差を作り出し、読者の方が登場人物より情報的に優位である状態を作り出すこと。これは、その人物たちに教えてあげたい、という読者の心理を掻き立てるために配置する。

その2:言いたいけど言えない、という状態の登場人物を出すこと。

つまり、読者と同じだけの情報量を持っている人物を出し、かつ、その人物からは言い出すことはできない、という状況を作り出すこと。これは、その人物に代わって教えてあげたい、という読者の心理を掻き立てるために配置する。

「ローマの休日」において、「何も知らない登場人物」は、最後のシーンの新聞記者たちと、王室側近たちだ。

「言いたいけど言えない登場人物」は、アン王女とブラッドレー、ということになる。

何も知らない登場人物たちに対して、本当のことを言いたいけど言えない主人公たちの代わりに、隠された事実を伝えたい、しかしそれは叶わない。そんな思いが、読者に切なさを感じさせている。

切なさを学ぶにうってつけな「ローマの休日」。オードリーの可憐さだけじゃない、不朽の名作の呼び名にふさわしい、素晴らしい作品だ。

「機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争」の場合

別の例も見てみよう。OVA「機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争」だ。

ストーリー

この「機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争」という作品は、ジオン軍の兵士バーニーが、ザクに乗って敵側の連邦軍のガンダムに立ち向かう話だ。以下に概要を記そう。

ジオン軍の兵士バーニーは一人の戦争好き少年のアルと、一人の女性クリスに出会う。

バーニーはクリスに恋をするのだが、このクリスはガンダムのパイロットで、最終的には二人はそれと知らずに戦うことになる。ザクに乗るのはバーニー。ガンダムにはクリス。

最終的には、ガンダムが勝ち、ザクは大破。バーニーは死ぬ。

バーニーもクリスも、戦っている相手のコクピットに誰が乗っているのか知らずに戦い、最後までその情報は知らされずに終わる。

ただ唯一、二人のことをよく知るアルだけが、全てを知っていた。コクピットに乗っていたのが誰と誰なのか、死んだのは誰なのか。

誰が誰を殺したのか。誰が誰を好きだったのか。

そしてバーニーが死んだ後日、しばらく遠くに旅立つとクリスから伝えられたアルは、帽子を目深に被って涙を隠しながら「バーニーも寂しがるんじゃないかな」と伝える。

最後、学校で戦争が終わったことがアナウンスされると、アルは泣き出す。アルと同じく戦争好きな友達たちは、アルの涙のわけを勘違いし、「また戦争は起きるから、そんなに泣くなよ」と慰める。

仕掛け

この「機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争」で、「何も知らない人物」はバーニーとクリスと戦争好きのアルの友達たちだ。

そして、「言いたいけど言えない」人物はアルだ。クリスに対して、「あなたが倒したモビルスーツ(ザク)に乗っていたのはバーニーで、彼は死んでもういないんだ」とは言えない。

アルの涙のわけを勘違いした友達たちも、「何も知らない人物」だ。この時の「言いたいけど言えない」人物もアルだ。

ちょっと話はそれるが、この最後の戦争好きの友達との絡みは、アルの成長を表現している。

戦争好きの幼い友達と、戦争がどんな悲劇を生むのかを知り、少し大人になったアル。

その両者の違いが、アルの涙に対しての返答(「泣くなよアル、また戦争は起きるって」)に現れている。

「機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争」。ぜひ一度見てもらいたい。たくさんの楽しさと、たくさんの学びを与えてくれる、素晴らしい作品だ。

おわりに

そんなこんなで、切なさの演出について語ってみた。

読者の持っている情報量の違いと、小説の登場人物が持っている情報量の違いが、切なさを作り出す一つの方法だということを理解してもらえただろうか。

また、冒頭でも述べたけれど、ハラハラと切なさは、同じ成分でできている。「小説家はいかにして読者をハラハラさせるか」を未読の方は、ぜひとも合わせて読んでもらいたい。

そして、ハラハラと切なさの他にも、ニヤニヤしてしまうような状況も、この「読者と登場人物の持つ情報量の違い」から作り出すことができる。

そう、この「読者と登場人物の持つ情報量の違い」は、小説をいろいろな角度からいろいろな方法で面白く豊かにすることができる、万能調味料なのだ。ニヤニヤについても、機会があれば語りたいと思う。

ともあれ、この万能調味料、うまく使いこなしてキミの小説を風味豊かにしてもらいたい。

活用されたし。