最近はすっかりなりを潜めているけれど、かつてライトノベルの中ではやれやれ系主人公が活躍をしていた。
今回のエントリでは、小説家がどのような腹づもりでやれやれ系主人公にやれやれと言わせていたのか、それを解いていこうと思う。
一時的なブームの話ではなく、その裏にある小説家の思惑についての話だから、やれやれ系に興味がないキミも是非読んでもらいたい。
ではいってみよう。
やれやれ系主人公とは
まず、やれやれ系主人公とはどんなものを指すのか。
「いろいろなことに挑戦しようとするヒロインに、毎度参加するようさせられて、面倒だから参加したがらないが、断る労力よりも参加する労力の方が楽だという理由から、やれやれと思いつつも参加する」
というのが基本スタンスの主人公たちのことだ。
具体的な作品で言えば、「涼宮ハルヒの憂鬱」のキョンや、「氷菓」などの古典部シリーズの折木奉太郎。
彼らは、自分につきまとう可愛い女の子たちが何やら面倒なことを押し付けてこようとするたびに、やれやれするのだ。
彼らがやれやれするその理由を明らかにするために、まずはボーイミーツガールについて明らかにしておくべきことがある。
それは、ボーイミーツガールの物語には、ハードとソフトが存在する、ということだ。
ハードボーイミーツガール。通称ハードBMG(ボーイミーツガール)。
ソフトボーイミーツガール。通称ソフトBMG(ボーイミーツガール)。
聞いたことはあるだろうか。
ないだろう。あるはずがない。なにしろ、今、僕くれあきらが作ったのだから。
ハードボーイミーツガールとは
ボーイミーツガールは男女が出会う物語だが、一度会った男子と女子が、もう一度会いたいと思うのか、それとも別に会いたいと思わないのかで、話の展開が大きく変わってくる。
彼女に(もう一度)会いたいと主人公が思うなら、それはハードボーイミーツガールになる。
より硬派で、より純粋で、すべての登場人物、すべての舞台装置、すべてのイベントがボーイとガールの出会いのためだけに配置されている物語。それがハードボーイミーツガールだ。
ハードボーイミーツガールでは、ボーイがガールに会うこと(再会すること)がボーイの一つのミッションになりうる。そして同時に、彼女に会いたがる主人公の行く手を阻む障害がもれなくついてくる。
要するに簡単に彼女に会えない。会ってもまた彼女が連れ去られてしまったりする。それがハードBMGの宿命だ。
そして、その障害が、読者が主人公の行動を支持するエンジンとなる。
「天空の城ラピュタ」とか「スーパーマリオ」を思い浮かべてもらえればいいだろう。
ソフトボーイミーツガールとは
逆に、彼女に(もう一度)会いたいと思っていないけれど、はからずも再会してしまうというのがソフトBMGだ。この場合、望んでいないのに彼女に執拗に「何か」に誘われる、もしくは強制的に行動を共にせざるを得ない必要性にかられる。
つまり、やりたくないのにやれといわれる構造になっている。
このソフトBMGは、ボーイとガールを貫く共通の具体的な「何か」があるかないかで、これまた分類されることになる。
ボーイとガールを貫く共通の「何か」とは、どんなものだろうか。
例えば、新川直司の漫画「四月は君の嘘」では、主人公とヒロインは「音楽」という共通のモチーフで繋がっていた。
例えば、有川浩の小説「図書館戦争」では、「組織」という、離れるに離れられない縛りでヒロインと上官が繋がっていた。
こうした、共通のモチーフで繋がっているタイプの物語を、「エクスキューズあり型ソフトBMG」としよう。
これに対し、ソフトBMGにおいてボーイとガールを貫く共通の「何か」がない場合、もしくはそれが限りなくゆるい共通点である場合、そこがやれやれ系主人公の生まれる土壌となる。
「エクスキューズあり型」に対し、こちらを「やれやれ型ソフトBMG」としよう。
エクスキューズあり型ソフトBMG
「エクスキューズあり型ソフトBMG」の物語では、主人公とヒロインがいやいやだろうが一方的だろうがひっつこうとする明確な理由、エクスキューズ(言い訳)が存在している。
先の「四月は君の嘘」で見てみると、彼女が自分の能力を見初めてしまい、嫌だと言っているのに「キミのピアノじゃないとダメ」的に積極的にアプローチをしてくるだとか。
「図書館戦争」で見てみると、同じ組織に所属している上官だから、嫌だと言ってもそんなに簡単に離れることはできないとか。
そういうエクスキューズだ。
こうした、「共通の何か」(もっというと「共通の何かによる縛り」)があることにより、「それを自分がやらないといけない」というもっともらしいエクスキューズ(言い訳)を作り出すことができる。
「やりたいとは思わない、見捨てることもできる。でも、これができるのは自分だけだ。だから彼女は自分に固執する。強く依頼をされ、仕方なくやっている」あるいは、「本当は離れたい。でも仕事だから仕方なくやっている」とか、そんな感じだ。
嫌だと言いながら、それでもそれをやる理由があると、読者は納得する。多くの小説家は、そう考えて主人公たちの行動に理屈をつけている。嫌だと言いながらも主人公が動く理由を。
やれやれ型ソフトBMG
それに対し、主人公とヒロインの間に共通する「何か」がない場合、主人公とヒロインはいつでも簡単に無関係の他人になることができる。
ヒロインが執拗に主人公にこだわる必要性もない。
仮にヒロインが執拗にこだわったとしても、主人公として本気で嫌なら逃げて良い。ヒロインがそれを咎める理由も、足蹴にされてそれでもなおしがみつく理由も、何一つない。
だけど、そんな風にヒロインに離れられてしまっては、話が始まらない。同時に、そんな風に突き放す主人公では、話が始まらない。
かといって、美少女が「一緒に何かやろうよ!」とか「謎を解いて、お願い!」などと言い寄ってくることに対して、「ブラボー、是非是非!」なんて諸手を挙げて喜んで尻尾を振って引き受ける主人公を書こうとすれば、それは作家のDNAが拒絶をするのだ。「それは正解ではない」と。
どういうことか。
「主人公たるもの、望まざる旅に出て、苦難を味わった上で、人として成長をとげ、旅を終えるべし」という基本構造が、小説家の頭をよぎるからだ。
その構造と照らし合わせると、美少女からの誘いは、「ラッキー! やりますやります!」「くは! たまんねぇ!」と喜んでうけたまわるような性質のものであってはならず、「これは望まざる旅であり、苦難を味わうこととなるものだ」という性質のものとして記す必要がある。
しかし、主人公とヒロインの間には、共通の「何か」による縛りもないので、そのヒロインの誘いに反発したり拒絶したりする、確たる理由もない。
だから、ささやかな抵抗の意味を込めて、主人公は言うのだ。「やれやれ」と。
やれやれ。
おわりに
やれやれ系主人公がやれやれする理由について、理解してもらえただろうか。
図にしてまとめるとこんな感じだ。
ちなみに、このやれやれ系主人公の「やれやれ臭」を脱臭することはそれほど難しくない。ヒロインに弱みを握られたり、ヒロインに金でつられたりすれば、行動に理由(エクスキューズ)がつくのだ。
編集者によっては、行動に理屈がないと納得しない人もいる。理由のない謎の協力を認めない人もいる。
そんな時は、誰かに弱みを握られてしまった、とすれば収まりが良い。
どうしてもやれやれ系主人公を描きたいとか、どうしてもやれやれ系主人公でないと都合が悪い、というわけでもないなら、一つのテクニックとして覚えておいてもらいたい。
活用されたし。
ライトノベル作家。
商業作家としての名義は「くれあきら」とは別。今は主にブログで小説にまつわるアレコレを配信中。デビューから商業作家時代の話を「今、小説家になるために必要なもの(1)」に書いてます。