描写のパターン化について

多くの小説家は、状況の描写をするとき、自分なりの描写のフレームワーク(枠組み)を無意識のうちに使っている。

描写をパターン化しておき、状況に応じてそのフォーマットに当てはめることで、小説の冒頭や、節の頭にある状況の描写を効率的に書き進めているのだ。

そうすることによって、小説家は自身が小説を書く際の執筆負担を減らし、文章を量産できるような仕組みを自前で準備している。

このエントリでは、そんな描写を効率的に書き進めるテクニックを記そうと思う。

描写のパターン化

描写をパターン化するーーとは言っても、あらゆる描写がパターン化されるわけではない。では、どのようなものがパターン化されるだろうか。

おきまりのことを伝えるような状況が話の中で何度もある場合、それはパターン化が有効になる。

それは一体どんなものか。

代表的なものは、5W1Hによる舞台の説明だ。

小説の冒頭や節の頭では、小説家は大抵「物語の舞台はどこで、いつで、そして誰が何をしているのか」を語ることになる。それを語らないでアクションを進めていくと、読者に何が起きているのか伝わらないからだ。

だから、舞台(Where)、今はいつか(When)、誰がいて(Who)、どういう理由で(Why)、何を(What)、どのように(How)しようとしているか、を明らかにすることが重要になる。

ビジネス文書では重要な意味をなすこの5W1Hは、小説においても意味をなす。

この5W1Hの情報のうち、いずれかの情報(例えば「ここはどこか?」)が物語の中ですぐには明らかにされない、という場合もあるだろう。演出として隠しておくことも当然ある。その場合、それが伏せられていて、いずれ明らかになる、ということを示す必要がある。

5W1Hを滑らかに描写に盛り込む方法

5W1Hは明らかにする必要があるわけだが、小説である以上、説明的になっては面白くない。5W1Hを滑らかに描写に盛り込んでいくべきだろう。

では、小説家たちは、5W1Hを描写の中に滑らかに溶け込ませるために、どのような手段を使っているのだろうか。

代表的な、よく見受けられるパターンを一つあげてみよう。

「描写主体をカメラにして飛ばす」という方法だ。

意味がわからない? だろうね。以降で説明する。

「描写主体をカメラにして飛ばす」とは

「描写主体をカメラにして飛ばす」とはどういうことだろう。

物語の舞台となる場所にカメラを配置し、それを動かしながら、カメラに映っているであろう映像を描写する。これが、「描写主体をカメラにして飛ばす」という手法だ。

この手法を使うことにより、滑らかに5W1Hの描写を行うことができる。

舞台となる場所にカメラを配置する

舞台となる場所にカメラを配置して、それを動かしながら、カメラに映っているであろう映像を描写する。果たして、どのようにすれば良いだろうか。

以下で触れていくとしよう。

その1:全体像を映す

まずは10階建てのビルくらいの位置にカメラを配置して、舞台となる場所(Where)の情報を俯瞰的に示す。

そこがどこで、どんなものがその地上数十メートルに位置するカメラに映っているのか。そうした情報を描写してみると良いだろう。

その2:時刻を映す

少しカメラの高さを落とし(地上2〜3メートル)、季節感や時刻感といった情報(When)を示す。

その時、その季節、その時間帯特有の何か(冬用の服装、夕方の夕焼け、など)を描写すると、よりイメージが伝わりやすい。

その3:自分たちの身の回りの映像を映す

全体像(Where)と時期感(When)を伝えたのち、カメラをより自分側に寄せて場所の描写をする。

ただし、自分(主人公)はカメラのフレーム内の隅っこにいる程度とする(Whereその2)。

カメラ=自分となるのは次の「その4」に任せるものとし、ここではカメラ=自分とならない描写を入れておくよう意識すること。

その4:自分の視線=カメラの視線として、目の前のものを映す

「その3」でカメラを自分たちに寄せた後、さらに自分に近づいて、自分の目が見ているものと同じものを描写する。つまり、ここでカメラ=主人公となる。

目の前の何(What)を描写すべきかを考え、それを読者に提示するために描写する。

これにより、読者が主人公の位置まで降りてくる。

その5:目の前のものの詳細を映す

「その4」で描写した何か(What)が、どのような代物なのか、どのような状態なのか、どんな具合なのか(How)を示す。

楽しげなのか、緊張しているのか、気だるげなのか、どんな感じかを記す。

その6、理由を映す

「その5」で記した何か(What)に対して、それがそのような状態になっている理由(Why)を示す。

「状態」が不機嫌、というものであった場合、例えば何かの不合格通知などを登場人物に眺めさせることで、その不機嫌の理由を読者に示すことができるだろう。

描写主体をカメラにして飛ばす利点

全体像から細部に徐々に近づいていくという流れは、人間が物事を理解する時によく使われる。その詳細は、全体におけるどの部位なのか、それを把握することではじめて、詳細を理解しよう、という気になれる。

だから、伝えないといけない情報を乗せたおきまりの舞台描写は、ある程度型にはめて記載することで、まずは最低限理解できる形式で記載してしまった方が良い。

その上で、表現や比喩を工夫したり、情報の出し方を工夫して演出を効かせたりすると、軸がぶれないだろう。

おわりに

ここでは、「描写主体をカメラにして飛ばす」という方法について触れた。伊坂幸太郎の小説などに時々見受けられるような方法だ。

もちろん、これ以外にも、西尾維新の「物語シリーズ」にはそれ独特の物語の始め方があり、村上春樹による節の冒頭描写も独特なリズムを刻んでいる。

そう、当然、情報を読者に伝える方法は一つじゃない。

ひょっとしたら、描写をパターン化、フレームワーク化するなんて、ワンパターンで面白みがない、クリエイティブとはかけ離れている、と思う人もいるかもしれない。

しかし、世でクリエイティブと思われている小説家たちの文章には、ここでいうパターン的、フレームワーク的な骨格が見え隠れしているし、同じような(決まり切った)言い回しも多数出てくる。

それらの、繰り返し出てくる型や言い回しは、下手をすればワンパターンとなる代物だ。しかし、うまくやれば、それはその作家ならではの言い回し、「なにがし節」と呼ばれるような何かになる。

村上春樹、伊坂幸太郎、西尾維新、夢野久作、カート・ヴォネガット、岡崎京子、荒木飛呂彦。

こうした、僕が極めてクリエイティブで、唯一無二だと思う作家たちは、必ずその作家ならではと一目で分かる「節」がある。「節」は、その人ならではのパターン化されたものだ。パターン化されていないと、読者がそれを「ならでは」と感じることができないからだ。

ネットで村上春樹の文章のモノマネをみることもあるだろう。そしてそれは、「確かに!」と思えるような「何か」が潜んでいるはずだ。それは、オリジナル(村上春樹)自体がパターン化、フレームワーク化されているからこそ、僕たちに伝わるモノマネなのだ。

だから、言い回しにせよ、描写の運びにせよ、パターン化を恐れる必要はない。そこに自分ならではの要素を練りこめば、それはこれ以上ないほどにキミの武器となる。

活用されたし。