小説における「新規性」について

小説には「新規性」が必要だ。少なくともそう信じられているーーというか、僕はそう思っていた。

しかし、その「新規性」とは一体何に対する新規性なのか。そして、「新規性」はなぜ必要なのか。

本エントリでは、そうした小説における「新規性」について、今一度、考えてみたいと思う。

小説における新規性

キミがこれから書こうとしている小説に対して「新規性」を盛り込むとしたら、一体どこにそれを盛り込むだろう。

多分それは、キャッチコピーにそのまま反映されるような、「舞台装置」と「設定」だろう。例えば、「人工知能のみが存在する世界で繰り広げられる、人工知能たちの青春ラブストーリー」みたいに。

しかし、考えてみると小説の「新規性」を入れる箇所としてありえる選択肢は、「設定」や「舞台装置」だけではない。小説を構成する要素すべてに、「新規性」を盛り込むことができるはずだ。

新規性を付与することができるものとは

では、小説を構成する要素とはどんなものがあるだろう。それは以下だ。

  • 設定・舞台装置
  • キャラクター
  • 文体
  • 具体的なストーリー
  • 物語の型(類型)

このうち、「具体的なストーリー」(「ミステリーのトリック」などもこれに含むものとする)は新規であることがある程度前提となっているため、ラインナップから除外しておく。

そして、「物語の型(類型)」は、新規性を求めて限られた数の類型パターンを逸脱しようとすると、出来上がったものは「物語」ですらなくなってしまう。だからこちらもラインナップから除外する。

というわけで、残った「設定・舞台装置」、「キャラクター」、「文体」においては新規性を打ち立てることができるはずだ。

キャラクターと文体の新規性では企画が通せない

小説家は、「設定・舞台装置」、「キャラクター」、「文体」において新規性を追求することができる。

しかし、「小説に新規性を盛り込もう」という話になると、決まって話に上がるのは「設定・舞台装置」だ。

この「設定・舞台装置」で新規性を確立した上で、編集者は小説家に執筆OKのサインを出す。

それ以外の項目(キャラクター、文体)における新規性は、少なくとも企画を通すための材料には、一切ならない。なぜだろう。

新規性=設定・舞台装置の新規性の理由

「新規性」が「設定・舞台装置の新規性」に限定される理由は明白だ。

それ以外の項目(キャラクター、文体)における「新規性」は、「これがこのキャラ/文体の新規性です」と端的に示すことが難しいのである。

例えば、キャラクターや文体の新規性は、じっくりと小説を読んだ上でないと分からない。その上、その新しさ・良さを第三者に説明するためには、たくさんの言葉や具体例が必要になる。

しかし、「設定・舞台装置の新規性」であれば、端的に説明できて、しかもそれは小説を売るためのキャッチコピーにもなる。

編集者は、その小説を出版するために、社内で企画を通す必要がある。その時、

「この小説は例えばこんな行動に代表されるような新規性溢れるキャラが出てきて〜」

とか

「この小説は例えばこんな文章に代表されるような新しい文体で書かれていて〜」

とか言ったところで、誰も「それはいけそうだ」とは思わない。

なぜか。

「キャラ/文体」の新規性を売りにしたその小説が面白く仕上がるかどうかが、執筆後の作品の姿にかかっているからだ。

言い換えるとこうなるだろう。

小説が書き上がらない限り、その小説の面白さがほぼ保証されないからだ。

だから、リスクを恐れる編集者たちは、事前に「面白くなりそう」もしくは逆に「大したことなさそう」を判断できる「設定・舞台装置の新規性」にのみ着目する。

これが、「小説における新規性=設定・舞台装置の新規性」が流通している理由だ。

設定・舞台装置の新規性はどれだけ必要か

設定・舞台装置の新規性は、あって悪いものではない。ないよりはあった方が良い。

しかし、それがないと小説として価値や意味が生まれない、というものでもない。むしろ、昨今ネットで流行り、その後出版されているような小説たちは、設定・舞台装置の新規性など、ほぼ無いと言って良いくらいだ。

おそらく、作り手側(小説家や編集者たち)が思っているほど、読者は設定・舞台装置の新規性を求めてはいないのだろう。

出版社から小説を出そうと言うなら、設定・舞台装置の新規性は絶対に必要だ。それがないと、編集者が社内でその企画を通すことができない。

そして、企画が通らないなら小説は書けない。つまり、どんな形であれ、設定・舞台装置の新規性がないと、小説が出せない。

しかし、もし出版社を介さずに小説を発表しようと言うなら、設定・舞台装置の新規性にこだわる必要はない。そんなものがなくても小説は書けるし、物語は成立する。

もちろん、魅力的な設定・舞台装置は読者の食いつきが良くなるから、キャッチーな設定・舞台装置を準備できるなら、それに越したことはない。けれど、それにばかり目を向けなくても良い。

おわりに

もし仮に、キミがキミ自身の作品の設定・舞台装置に新規性を感じなかろうが、作品に自分オリジナルだと思えるエッセンスがあれば、それを磨きあげてみよう。きっと小説全体が思わぬ輝き方をするはずだ。

そして、その輝きこそが、キミという小説家の「売り」だ。

小説を読む意味は、そうした小説家の「売り」を文章から感じ、楽しむことに他ならない。話を追うだけなら、文庫本一冊を数ページの紙で語りきることができる。それだけで事足りるのだから。

設定・舞台装置の新規性は、あれば物語を豊かにする。読者に楽しさを与える。あった方が良いだろう。

しかし、一言で表されるような設定・舞台装置の新規性よりも、キミの手によって書かれた文章にのみ現れる「売り」の方が、ずっと価値がある。僕はそう思う。

ライトノベル作家。
商業作家としての名義は「くれあきら」とは別。今は主にブログで小説にまつわるアレコレを配信中。デビューから商業作家時代の話を「今、小説家になるために必要なもの(1)」に書いてます。