小説にオリジナリティを与える方法

キミの書く小説にはオリジナリティはあるだろうか。

あるとすればその根拠はどこにあるだろう。自分の作品の何を指してオリジナリティがあると言っているのだろうか。

あるいは逆に、自分の作品にオリジナリティがないと思っている人は、何が不足していると思っているのだろうか。

このエントリでは、オリジナリティというものについて語っていきたいと思う。

そして、キミの作品にオリジナリティを与えるためのヒントにも触れたい。

オリジナリティとは?

そもそもオリジナリティとはなんだろうか。英語を直訳すると「独自性」とか「独創性」といったところだろう。

では小説やその他物語における独自性とか独創性とは、はたして何に向けられた言葉なのか。もう少し言うと、何に対して紐付くものなのか。

設定? ストーリー?

必ずしもそうじゃない、とキミは思うだろう。設定やストーリーがありきたりでも、オリジナリティに溢れる物語は存在している、と。

キャラクター? 文体?

そう考える人もいると思う。僕にしても、それが不正解だとは思わない。

でも、独創性というものは、何よりまず作家自身に紐付く、と僕をはじめとした多くの人は考える気がする。

ある一人の作家が、幾つもの作品の中で共通的に見せる、その作家ならではの「何か」が、オリジナリティとして語られるものなんじゃないだろうか。

というのも、たとえば一作だけとんでもなく独自性のある作品を書き、その他全ての作品が、誰が書いたのかもわからないような凡庸な作品だった場合、その作家にオリジナリティがあるとはあまり考えないからだ(そんな人の方が珍しいだろうけれど)。

そう。独創性や独自性といったものは、主に作品ではなく作家に対して紐付けられる。

あるいは、上の話に納得できないとしたら、以下の問いに答えてもらいたい。

「キミが身に付けたいと考えている「オリジナリティ」とは、今書いているその作品に現れさえすれば良いものなのか。それとも、キミすべての作品を通して見て取ることができるキミらしさなのか」

間違いなく、後者だろう。

オリジナリティを出す方法

オリジナリティが設定やストーリー、あるいは作品にではなく、作家そのものに紐付くものだとして、では作家は何をどうすればオリジナリティを出すことができるのだろうか。

それを分析するために、オリジナリティが溢れている(と、僕が思っている)作家について考えてみたいと思う。

西尾維新と村上春樹とカート・ヴォネガットだ。

この三者のオリジナリティは文字通りオリジナルなので表面上は似通っていないわけだけれど、攻め方のベクトルは非常によく似ている。

何が似ているのか。

  • 会話、比喩、描写がユーモラスであること。
  • 登場するキャラクターの思考が、やや常人とは異なること。

一つ目の、会話や比喩や描写がユーモラスであるということについては、鍛えればどうにかなるもの、訓練で作家が身に着けることができるものなので、ここではひとまず触れない。

問題は、もう一つの方だ。登場するキャラクター、それも主人公の思考回路が、一般的な人間の思考回路と違うというのが、西尾維新と村上春樹とカート・ヴォネガットの特徴だ。

ズバリ言おう。

彼らの描く主人公たちは、基本的に容易な共感を許さない思考回路をしているのである。

少年漫画などでは、主人公よりも、ちょっと脇にいるキャラクターの方が人気が出たりすることがある。主人公は常識人であるのに対して、その脇のキャラクターはエッジが効いた極端なキャラクターであるため、見ていて楽しい、だから主人公の人気を上回る、ということが起きる。

逆説的に言うと、並みの作家は常識人を主人公に据える。

では、なぜ並みの作家は主人公を常識人にするのか。

これには理由がある。

主人公の性格、価値判断基準、常識が一般的な感覚からズレたキャラクターだと、王道のストーリーを描きづらくなってしまうのだ。

でも、先に挙げた三人の小説家たちは、主人公にやや異常、あるいは少し特殊な思考をさせたり、特殊な趣味を持たせたりする。

少し具体的に言おう。

村上春樹の場合

村上春樹の「1973年のピンボール」では、主人公は双子の女の子と同棲をしていて、配電盤を取り替えにやってきた工事員を驚かせる。双子も双子で「彼ったらすごいのよ」「ほんと、すごいの」と、ウソかマコトか夜の営みについて語り出し、工事員の妄想を刺激したりする。

西尾維新の場合

西尾維新の戯言シリーズでは、死んだヒロイン(あくまでもその巻におけるヒロインだが)に対して巻の最後で「甘えるな」と吐き捨てたり、自分の味方とも言える人物を殺した少女と、次の巻でなぜか突然同棲していたりする。

カート・ヴォネガットの場合

カート・ヴォネガットの「猫のゆりかご」では、主人公が自分の妻である王女に、自分以外の誰ともボコマル(裸足になって足の裏を合わせ合う儀式)をしてはいけない、と嫉妬したりする。(ちなみに王女はボコマルが快感を伴うステキな行為と感じている)

オリジナリティを生み出しているのは

上で述べたような感じに、倫理観が変(「殺人少女と何食わぬ顔で同棲」)だったり、奇妙な性癖(「双子のガールフレンド」)を持っていたり、絶妙な嫉妬(「足の裏合わせ禁止」)をしたりするわけだ。それも、他ならぬ主人公が。

そして、この三人の小説家たちの描くキャラクターは、泣くべき時に泣かず、怒るべき時に怒らず、動揺すべき時に動揺しない。つまり、普通こう感じるだろう、という常識のレールにしたがって動かないことがある。

ネジがゆるいかきついか、とにかく少し特殊な趣向、思考回路をしていることが見て取れるわけだ。

乱暴に言うと、こんなところだろう。

軽度の変態さや軽度のサイコパス傾向を持った人物を、脇役ではなく他ならぬ主人公に持ってくることが、オリジナリティを生み出している。

おわりに

おそらく、村上春樹にしても西尾維新にしてもカート・ヴォネガットにしても、自分の中にあるいささか特殊な(ズバリ言えば、自分の中にある「ヤバめ」な)趣味趣向や思考を拾い上げ、人の目に触れさせることができるようにマイルドに加工し、それを主人公の属性に適用しているのだろう。

なので、少なくとも村上春樹や西尾維新やカート・ヴォネガットの作品を読み、その主人公に対してオリジナリティを感じたとしたら、そしてそのオリジナリティに価値を見出しているとしたら、キミもそれをしてみると良いだろう。

つまり。

自分の中にあるヤバめな趣味趣向、思考をまな板の上に吐き出して、それの毒抜きをし、主人公の属性として練り込んでみるのだ。

あるいは、キミが村上春樹や西尾維新やカート・ヴォネガット以外にオリジナリティを感じる作家を取り上げて、その作家のオリジナリティがどこに存在しているのかを分析し、その分析結果として出てきたエッセンスを小説に取り入れ、オリジナリティに対する独自理論を確立しつつ小説を書いていくのもいいだろう。

そう、ここに記したオリジナリティの話は、オリジナリティを表出させるための一つの方法に過ぎないのだ。他にも方法はきっとある。

ともあれ。

そんな風に自分自身のヤバさをまな板の上に出し、人様が口に入れることができるレベルに毒抜きすることで、オリジナリティ溢れる物語に仕上がるに違いない。

ただし、主人公の思考をサイコパスに寄せすぎると、主人公に通常の反応(悲しい時に泣く、怒るべき時に怒る、など)をさせた時に「え、どうしてこのキャラがそんな普通の反応を見せるわけ?」と違和感を読者に与えてしまうことになるので、十分にご注意を。

活用されたし。

ライトノベル作家。
商業作家としての名義は「くれあきら」とは別。今は主にブログで小説にまつわるアレコレを配信中。デビューから商業作家時代の話を「今、小説家になるために必要なもの(1)」に書いてます。