小説家がどうってことない言葉を輝かせる方法

さて、いきなりだけど質問だ。キミは「4巻」という文字を目にしてむせび泣いたことがあるだろうか。

普通はないだろう。でも、僕くれあきらはある。深夜のネットカフェで、ヒクヒクと。

なんのことかわからないって? 確かにその通り。「4巻」なんていう、なんの変哲も無い単語で、なぜ泣くのか。それもヒクヒクと。

今回のエントリでは、そういう話をしたいと思う。小説家は、なんの変哲も無い言葉を、特別に輝かせることが仕事なんだということを。

言葉に命を吹き込む方法

当然のごとく、小説というものは言葉の集まりだ。

ライトノベルではイラストがつき、それがなければライトノベルとしては成立しないけれど、文字だけでも小説としては成立する。というか、小説として成立させないといけない。イラストがないと意味がわからない小説は、どう控えめに見ても失格だろう。

小説家は文字だけで全てを表現しないといけない。感動を、悲しさを、ドキドキやハラハラを、ニヤニヤを、怒りを、その他あらゆる感情を、文字だけで読者に与えないといけない。

そして、それ単品で感動的な言葉などない。それ単品で悲しい言葉などない。

言葉に特別な意味を与えるのは「物語」だ。「物語」があってはじめて、言葉に本来以上の意味が生まれる。

では、どうすれば何の変哲も無い言葉が意味を持つだろう。どうすれば言葉にそれ単体以上の意味を持たせることができるだろう。

代表的なアプローチが二つある。

  • 冒頭と最後で、同じ言葉を、違う意味で使う
  • 冒頭と最後で、同じ種類の違う言葉を使う

それぞれ説明していくとしよう。

冒頭と最後で、同じ言葉を、違う意味で使う

冒頭と最後で、同じ言葉を、違う意味で使うことにより、何の変哲も無い言葉に命が吹き込まれる。

この代表選手は、カートヴォネガットの「タイタンの妖女」をあげよう。多くの作家に影響を与えた偉大なるSF作家の代表作である。こんな感じの話だ。

「タイタンの妖女」の主人公、ラムフォード。この男は富と名声を手に入れていて、地球上ではまるで神のように振舞っていた。

そして自分の権力を指して言うのだ。「どうやら天にいる誰かさんが俺のことを気に入っているらしい」と。

しかし、ラムフォードは星間移動の際の事故で記憶を失い、彼は過酷な戦場や労働を強いられることになる。

そんな中、ラムフォードはある孤独な星で、一人の宇宙人、トラルファマドール人に出会う。その宇宙人曰く、地球上の偉大な建造物は、地球に不時着したトラルファマドール人が、別のトラルファマドール人に向けたメッセージだという。

ピラミッドは「宇宙船のガソリンがなくなったのできてくれ」とか、万里の長城は「我々はまだ星に帰るのを諦めていない」とか、そんな調子だ(細かい話は記憶が曖昧だが、だいたいそんな感じだ)。

偉大だと思っていた地球上の建造物たちが、その程度のメッセージのために作られたものだった。地球上の人間はすべて、そんな宇宙人たちのメッセージのために生まれ、生き、死んでいた。

この地球上の誰もが、巨大な誰かの掌の上で踊っていたのだった。ラムフォードはそんなことを知らされたのだった。

その後、彼はその孤独な星で子供を作り、やがて死ぬ。

死に際して、水先案内人の天使がラムフォードの元を訪れ、彼を天に導く。そして言うのだ。「天にいる誰かさんがあなたを気に入っているんでね」

実に見事な展開じゃないか。

最初に出てきた「天にいる誰かさんは〜」と、一番最後の「天にいる誰かさんは〜」は、圧倒的に意味が違う。

最初の「天にいる誰かさんは〜」は、この世に生を受け、特別な生命体として選ばれたことに対する誇りと驕りと傲慢さが見え隠れする言葉だ。

しかし、最後の言葉はまるで逆。地位も名誉もカネも何もなくした一人の老人が、死後にあの世へと向かうさなか、天使から言われる言葉だ。

権力も金も、あの世には持っていけない。

権力もカネも地位も名誉もなくした裸の老人を、それでも、あの世にいる神的な誰かさんは気にかけてくれている。生きとし生けるものに対する愛は、地位や権力や資産に関係なく、みんなに平等に与えられるものなのだということが、この一言で伝わってくる。

最後の「天にいる誰かさんは〜」は、そんな、どうしようもなく優しい言葉だ。

同じ言葉をあえて冒頭と最後に配置することで、その言葉以外の周りの背景が、ガラリと変わっていることを示すことに成功している。

カート・ヴォネガットは、物語を通じて、冒頭で使った「天にいる誰かさんは〜」の言葉に魂を吹き込み、鮮やかに輝かせている。

素晴らしい、巨匠の技が光る小説である。このテクニック、盗まない手はない。

冒頭と最後で、同じ種類の違う言葉を使う

冒頭と最後で、同じ種類の違う言葉を使うことによっても、何の変哲も無い言葉に命が吹き込まれる。

この手法の代表選手として、伊坂幸太郎の「ゴールデンスランバー」を見てみよう。

この小説では、ある一人の男性が、殺人の濡れ衣を着せられ、警察に追われるはめとなる。そして、妻と離婚をして家族と別れ、最終的には顔を整形して逃げ切る、という話だ。

この物語の中で、男性と妻はこんな話をする。

「私たちの人生は、いつも「もう少し頑張りましょう」のハンコを押されちゃうような感じよね」

そのままの言葉ではなかっただろうが、だいたいそんな感じの言葉が出てくる。ようするに、バッチリうまくいくことはあまりなく、どこかもう一歩な人生だ、というやるせなさをこの夫婦は持っている、という話だ。

その後も、物語の随所で、折に触れてこの「もう少し頑張りましょう」のハンコの話が出てくる。

そして最後、見事に逃げ切った男性は、偶然自分の妻と娘にエレベータで再会する。

男性は整形をしている。だから彼が元夫=父であることなど分かるはずもない。彼女たちは何も言わずにエレベータを降りようとする。

しかし、エレベータから降りる直前、エレベータのボタンの押し方から彼が元夫=父であることを確信した元妻と娘は、彼の手にハンコを押す。

それは「たいへんよくできました」のハンコだった。それを最後の1行に、物語が終わる。

なんと見事な終わりだろう。

殺人者として逃げる男性に、「あなた」とか「お父さん」とか、そんな風に声をかけることができない元妻と娘。

そんな二人が、彼のことを元夫=父として気付いていること、そして、元夫=父の健闘を讃えていることを、今までずっと物語の中で積み重ね使ってきた「ランクづけのハンコ」というモチーフで、すべて余すことなく物語っている。

仮に、最後に手紙でも渡されて、その中で「お父さん逃げ切れてよかったね、お疲れ様」などと語られているよりも、ずっと歯切れの良い、ずっと鮮やかな終わり方だ。

「たいへんよくできました」のハンコは、「ゴールデンスランバー」の最後の行としてしか、感動をもたらさない。

だけど、「ゴールデンスランバー」では、「たいへんよくできました」のハンコは、これ以上ないほどの感動をもたらす。これで締めくくる以上の終わり方などあり得ない、そんな魔法の言葉になるのだ。

ここでしか輝かない言葉を輝かせる。だから良いのだ。

ありきたりの賛辞ではない、ここでしか意味をなさない言葉。だから一層その言葉がきらめくのだ。

僕にだけ効く言葉

さて、僕くれあきらの話をしよう。

社会人としてフルタイム働きながら、副業で小説家をするというのはなかなか大変だった。もちろん、ただ小説を書くだけなら、それほど大変ではない。

でも、プロとして小説を書くとなると、求められるクオリティも、求められるスピード感も、段違いになる。

眠る時間などなく、会社から出たらそのままファミレスに飛び込み、ノートPCを開いて食事をしながら小説を書く。

その後ネットカフェに飛び込んで充電をしながらまた小説を書き、そのまま2、3時間眠って家に帰ってシャワーを浴びて着替え、そして会社へと向かう。

そんな毎日を何ヶ月も過ごした。結局、半年くらいはそんな調子だったかと思う。

すべての作家がそうだとは思わないけれど、なかなか尋常じゃない状況だった。

そんな感じにデビュー作を書いた後、そのままの流れで一気に3巻までを書いた。

がむしゃらに頑張って書いてはみたが、売れはしなかった。売れないとなると、当然のごとく打ち切りになる。残念だがそれが現実だ。僕としても売れないものを続けていくつもりもなかった。

「3巻で終わり」

編集者からそれを伝えられた時も、別にどうとも思わなかった。売れなかったから終わった、そんなものだ。

しかし、次回作のプロットを考えている時、次回作の何かのヒントになるのではないか、そんな思いから、ふとネットカフェでエゴサーチをする気になった。

それまでは、怖くて自分の作品の感想など、見ることができなかった。

でも、終わった作品なら、それもできる気がした。恐る恐る、自分の本のタイトルをGoogleの検索キーワードに入れてみる。

そこで、僕の手は止まってしまった。泣いてしまったのだ。深夜のネットカフェで。

たくさんの高評価があったから? いいや。

素晴らしい感想があったから? いいや。

そんなものはなかった。そもそも、僕はその時「Google検索」のボタンさえ押していなかった。それを押す前、検索に至らずに、泣いてしまったのだ。

それが冒頭の「4巻」の話だ。

本のタイトルを入れたら、Googleの予測ワードで、こんな風に出てきたのだ。

「(僕の本のタイトル) 4巻」

それを見て、自分の力不足に泣けてきた。不甲斐なさと、嬉しさと、ありがたさで泣けてきた。それまでの苦労と、大変だった日々が、走馬灯のように蘇ってきて、泣けてきた。

そして、身にしみて感じたのだ。売れずに消えていった作品だけれど、どこかの誰かは、4巻・・が出るのを期待して、検索をしてくれたんだ、と。

他の人にとって、「4巻」は何の意味もなさない、何の変哲も無い単語だろう。縁もゆかりも愛着もない単語だろう。

でも、僕にとって、僕という物語にとって、「4巻」はそういう単語だ。特別に輝く、大切な言葉なのだ。

小説家は、何の変哲も無い、どうってことない言葉を輝かせる魔術師であれ。

それが僕くれあきらの、小説に対する姿勢だ。