小説に限らず、あらゆる物語ではいろいろな省略が行われている。むしろ、描かれているのは登場人物たちの生活の「ごくごく一部」。
言ってしまえば、物語は省略でできている。省略だらけなのだ。
だが、そうは言っても禁じ手はある。省略してはいけない描写がある。
今回は、そんな省略の禁じ手について語ろうと思う。
物語は省略でできている
先に述べた通り、物語は省略でできている。省略の塊といっても良いだろう。
大抵の物語は食事やトイレや風呂や眠る前のまどろみを描きはしない。美容院で髪を切ったり、本屋で本を買ったり、その本を電車移動の中で読んだりしていても、それを全部が全部文字にしたりしない。
数時間、数日間、数ヶ月、時には数年。まるまる時間を飛ばすこともザラだ。
いちいちすべてを記載していたら、ページ数がいくらあっても足りはしない。物語は省略されてナンボなのである。
物語は省略されてナンボ。確かにその通り。
しかし、だからと言ってどんな省略も許されるわけではない。やって良い省略と、やってはダメな省略が存在する。
やって良い省略とやってはダメな省略の前に、省略の種類について話をしておこう。
省略の種類
省略には、その省略度合いによって二つの種類が存在している。
- 完全省略:そもそも書かない。執筆自体を省略する。
- 部分省略:サラッと書くに留める。逆に言うと、書く。
例によって例のごとく、僕が勝手に定義したものだ。だから辞書を引いてもインターネットを検索しても出てこない。
完全省略も、部分省略もどちらも小説の本文中には書かれない、という点においては同じだ。しかし、分類しているだけあって、当然違いがある。
それぞれ説明しよう。
完全省略
完全省略とは、そもそも本文中にまったく書かれないし、想像さえできないし、想像する必要さえないものを指す。
この省略の対象となるのは、小説の本筋に関係がないあらゆる出来事だ。主人公の家の三軒向こうに住んでいる人が風邪で寝込んでいることとか、主人公が立っている場所から3000キロ離れた街でちょっとした泥棒があったこととか。
本文中にまったく書かれていないし、書く必要もないし、想像さえする必要がないことが、この完全省略と呼ばれる省略に該当する。
上の図の、オレンジの線に挟まれた部分が小説の本編だとすると、完全省略の領域は物語の完全に外側に位置する世界を指す。
部分省略
こちらが本題だ。部分省略を説明するにあたり、以下の文章をまずは読んでもらおう。
「僕は起きてすぐに着替えてコンビニに行き、お茶を買って部屋に戻って来た」
この記載の裏には、たくさんの省略が潜んでいる。着替えたり、顔を洗ったり、エレベータに乗ったり、レジでお金を払ったり、帰り道を歩いたり、またエレベータに乗ったり。
部分省略とは実際に小説で記載されている情報を点と点で結んだ結果、その間にある情報ややりとりを省略するもの、ということになる。
つまり、上の例でいうと、そんな省略の合間を縫うようにチョイスされた「起きる」「コンビニに行く」「お茶を買う」という行為が、部分省略の末に残った記載、ということになる。
上の図の、オレンジの線に挟まれた部分が小説の本編だとすると、部分省略の対象となるのは本編の領域の一部となる。
さて。
説明と前置きはこれくらいにして、核心に迫ろう。本エントリの核心は次の一文につきる。
部分省略で省略が可能なのは「過程」だ。それも「ベクトル転換の要素がない過程」だ。
ちょっと何を言っているのか分かりづらいと思う。いや、ちょっとどころか全くわからないかもしれない。なので、例を使って説明しよう。
営業部に配属となった新入社員のAは、上司と一緒に客先へ足を運ぶ日々を過ごしていた。
ある日、上司からの指示で、お得意先への商品説明をすることになったA。彼は自分なりにその商品の説明を考え、プレゼンを行った。
しかし、その説明を聞いたお客は不快感を示し、Aを追い返してしまう。
不快感を示され、追い返された原因が分からず、悩み、落ち込むA。そして潤んだ瞳をアスファルトの地面に向けて呟く。
「俺はいったいどうしたらいいんだ……」
そんな前提があるとしよう。
この時、Aが悩んだまま節が終わり、次の節でこんな風に続いていたらどうだろうか。
「客から追い返されたあの後、Aは先輩からのアドバイスを受けて客の信頼を取り戻した。その後メキメキと実力をつけたAは、一年後の今、こうして立派な営業マンになっていた」
どうだろう。読者としては、「はてな?」となるのではないだろうか。
「なぜ、いきなり立派になっているのだ?」「その説明は?」となるに違いない。
ここでは、一年間の成長の過程がまるまる省略されている。
それ自体は別に構わない。一年間頑張っていることをことごとく書いていたら、ページがいくらあっても足りない。
問題は、一年間の成長の過程を省略するためには、その成長の兆しを見せないといけないにも関わらず、それを見せていない、という点にある。
少なくとも、「先輩からのアドバイスを受け、不快感を示された原因を突き止め、もう一度同じ客に対してアプローチをし、「少しはマシになったようだな、次も期待してるぞ」と客に言われ、「はい! ありがとうございました!」と元気いっぱいにお辞儀をする」くらいまでを本文で描き切ってから、一年後に移るべきだろう。
その後であれば、「その後メキメキと実力をつけたAは、一年後の今、こうして立派な営業マンになっていた」という説明がポンと入っていても、納得してもらえる。
図で言えばこんな感じだ。
省略する範囲に、人生の上り下りの「ベクトル」が変わるような事件を起こしてはいけない。そんなことをしたら、読者の頭の中に疑問符が浮かぶ。
しかし、頂点を極めていたと思ったら次の章では落ちぶれていた、というのはオーケーだ。
なぜか?
事実、落ちるのは一瞬だからだ。
省略の模範例
この省略を語る上で、良い例がディズニー映画にある。ターザンだ。
ターザンは、ゴリラに育てられた人間であるターザンの成長物語である。
最初、子供のターザンは、自分がゴリラとあまりにも違うことに悩む。力は弱いし見た目も違うし周りと同じことができない、と。
しかし、ターザンの母親ゴリラは、そんなターザンに対し、優しくいう。
「お前はみんなと同じ。手もあるし、耳もあるし、鼻は、小さいけどあるわ。心臓の鼓動も同じ」
それに対してターザンは「僕も立派なゴリラになれるかな?」と母親ゴリラに聞く。
「なれるわよ」という母親ゴリラの言葉を受けて、ターザンは笑顔を見せ、「僕、頑張ってみるよ」と立派なゴリラになることを決意する。
そして、フィルコリンズの音楽が流れ、ミュージカルパートが始まる。成長の過程が省略されつつ、映像の中で描かれる。
ターザンは、失敗を繰り返しながら、徐々に成功をするようになり、やがて立派に成人するのだ。それこそ、3分足らずのミュージカルパートで、10年分くらいの成長をするわけである。
このターザンでも、「僕頑張ってみるよ」と、成長に向かう準備ができた状態で、つまりターザンの心の矢印が上側に向いた状態で、ミュージカルパートという名の省略が始まる。
さっきの営業マンの例も、自身の成長のベクトルが上向きになった状態で省略が始まれば、納得感のある省略を描くことができる。
しかし、営業マンの気持ちの矢印が下を向いた状態で、上を向く気配も予感もないまま、省略後の世界で上向きの矢印を見せられても、どうにも納得はできないのだ。
ちなみにこのターザンは、ディズニー映画の中で群を抜いて美しいプロットの物語だと僕は思っている。「ディズニーの中で何番目に好きか」と聞かれれば、個人的な感想としては、五本の指には入らない。
だが、だとしても、プロットの美しさはナンバーワンだ。ぜひ見ておくことをお勧めする。
おわりに
といった感じに、ディズニーにおける省略の好例を交えて説明してみた。
けれど、実はディズニーの別の映画では、気持ちのベクトルが下向きの状態でミュージカルパートが始まり、音楽が終わるときに矢印が上向きになる場面もいくらか存在する。
そのあたりの話については別の機会に譲るとしよう。
ともあれ。
部分省略をする場合には、その省略された中で矢印を下向きから上向きに変えないように注意をしたい。少なくとも、それがスタンダードな禁じ手であることは、覚えておいて損はないだろう。
活用されたし。
ライトノベル作家。
商業作家としての名義は「くれあきら」とは別。今は主にブログで小説にまつわるアレコレを配信中。デビューから商業作家時代の話を「今、小説家になるために必要なもの(1)」に書いてます。