二時間サスペンスのドラマで、崖の上から飛び降りようとしている犯人を捕まえて、「どうしてこんな犯行を」「だってあの男は俺の娘を殺したも同然なんだぞ」みたいなやりとりを見たことがあるだろうか。
現実の世界では、あんな風に問い詰められた犯人がその場で犯行の理由を白状することは考えづらい。
しかし、小説の世界では、探偵に追い詰められた犯人は聞かれたことに無条件に答えていく場合がある。特に(小説ではないけれど)、二時間サスペンスドラマの世界では。
なぜ、小説家は犯人に白状をさせるのか。今回はそれについて見ていこうと思う。
目次
犯人に犯行のあれこれを白状させる理由
小説家が犯人に犯行の仔細を白状させる理由は明白だ。読者に物語上の真実を伝えるためである。
いつ、どうやって、どのようにその犯行をしたのか。そして、なぜそれを実行したのか。一般的に、ミステリーの形式をとる物語であれば、読者に犯行の方法や犯人、動機といった背景を伝えないわけにはいかない。読者が悶々とし、物語に対して不満を覚えるからだ。
ことさら、犯行の動機(Why done it)は扱いが難しい。
どうやってその犯行を実現したのか(How done it)や、誰がその犯行を実行したのか(Who done it)については、探偵が証拠から解き明かすことができる。だから、犯人にベラベラと喋らせる必要はない。
しかし、犯行の動機(Why done it)に関しては、究極的には犯人の口から聞かないと正しい答えは分からない。
娘を殺された父親が、娘を殺した殺人犯を殺害したとしても、娘を殺したその相手が憎かったから殺した、とは限らない。客観的に考えてそうだとしか思えなくても、確証がない。
だから、犯人を崖の上に立たせ、白状をさせるのだ。その動機を、地に足がついた事実とするために。それがうまいやり方かは別にして、崖の上の白状シーンは、そんな作者の都合により用意されている。
最後に一気に白状することについて
ミステリーにおいて、明らかにならない部分があれば読者は悶々とする。その悶々とした気分は不満につながる。だから、小説家は基本的に謎に関するあれこれをできるだけ明らかにしようとする。
謎に関するあれこれを読者に伝えようとすること自体は問題ではない。しかし、やり方を間違えると、途端に茶番じみてくるのもまた事実だ。それこそ、出来損ないの二時間サスペンスのように。
では、なぜ崖の上の白状シーンは茶番じみているのだろうか。
それは、犯人が罪を犯したその理由という巨大なクエスチョンに、あまりにも安易に回答を出しているからだ。「なぜそんな犯行をしたのか」という、ある種究極の問いに対して、「なぜならこうだから」と、簡単に答えを得てしまっている(=登場人物(と作者)に楽をさせてしまっている)ところが、茶番感を出している。
そしてそもそも、犯行の理由の前に、犯人が「ああ、俺がやったさ!」と簡単に犯行を認めてしまうこと自体も、楽をして真実を得ている(=登場人物(と作者)が楽をしている)部分と言えるだろう。犯人に、そんなに簡単に白状してもらっては張り合いがない。
読者は、作者と登場人物が楽をすることを、極端に嫌うと覚えておいた方が良いだろう。
うまい白状の仕方
白状をしないと読者は悶々とする。
でも、そのまま白状をさせたら読者は楽をするなと憤慨する。
ではどうするのが良いだろうか。考えられる方法をいくつか挙げてみよう。
- そもそも語らない(語らず、描写する)
- あらかじめ語っておく
- トドメの直前、冥土の土産として(圧倒的強者側が)白状する
それぞれ説明しよう。
そもそも語らない(語らず、描写する)
読者は物語における真実を知ることができれば良いわけである。別に、探偵×犯人が対峙をして語り合う展開を期待しているわけではない。
だとすれば? 簡単だ。そんな掛け合いは書かなければいい。そんな語り合いは書くべきじゃない。
その代わりに、描写をすれば良い。犯人サイドの視点で、犯人の心境や行動がわかるような描写を。そうすることで、探偵×犯人の茶番的な掛け合いを回避できる。
多人数の視点の物語や、群像劇は、この「あなたがやったのね!」「そうさ!」「どうして……!」「だって!」という、間抜けな全力投球のやりとりを回避できるというメリットがあることを、覚えておいた方が良いだろう。
そんなこともあって、実は群像劇は小説素人にはオススメのスタイルなのだ。群像劇の形式を借用すれば、お手軽に、玄人っぽい小説を作り上げることができる。
語らず、描写するというこの方法論の代表例は、映画「ユージュアル・サスペクツ」だろう。最後、真犯人が誰だったのか、それが映像だけで見事に語られる。
あるいは、押井守監督の「劇場版パトレイバー1」も例として挙げておこう。この作品では、犯人が犯行動機を語らない。動機どころか何一つ語らない。語るに語れないのだ。何しろ、犯人は冒頭、最初のシーンで自殺をするのだから。
ちなみに、北野武の映画なら、「どうして!」と問うよりも先に、ピストルで相手の頭を撃ち抜いている。撃ち抜かれるのは問われる方か、問う方か、それは状況に応じて色々あるが、とにかく無粋な説明なんてない。だから粋で、アヴァンギャルドで、そしてその表現がうまく決まっているが故に、世界的に評価されているのだろう。
あらかじめ語っておく
物語の最後で、追い詰められた犯人が犯行にまつわるあれこれを一気に語る。その「一気に語る」という点が茶番感を増幅させている。だとすれば、あらかじめ犯行動機や方法、あるいは犯人自体を明らかにしておき、最後に語られることを限定的なものに絞ったら?
そう。あらかじめ色々なことを明らかにしておき、最後の場面で必要となる言葉を絞り込んでおくことで、物語の最後に一気にまくしたてるという、あの泥臭い茶番劇感が激減する。
あらかじめ色々語っておくというこの手法では、最後の白状シーンは「こういう方法であなたはあの人を殺したんですね」「ご名答」のようなシンプルなやりとりだけが最後に生まれるという、スマートかつ淡白なスタイルになる。
逆に言うと、犯人の熱量が高い場合=犯人がスマートではない場合には、この方法は取りづらい。どこかゲーム感覚で犯行に至っているような犯人というペルソナがあるなら、この方法は有効に働くだろう。
トドメの直前、冥土の土産として(圧倒的強者側が)白状する
追い詰められたから犯行を白状する、という犯人のアクションを見ると、読者はそこに安直さを感じる。作者が楽をしている、ということを感じ取ってしまう。
何しろ、最大の難関であるはずの犯人が、「白状」という方法で謎の解明に協力する立場になるのだから。犯人は、最後まで主人公を困らせる存在であった方が、読者に納得感を与えられる。
追い詰められた犯人が犯行を白状するとなると、読者に白い目で見られる。だとすると、逆に追い詰めて犯行を白状するとしたら? もし仮に犯人側が追い詰める側で、探偵を狩る直前だとしたら?
これなら、読者は「作者が楽をしている!」とは思わない。
次の瞬間、すぐに、すごく簡単に始末されうる、そんな状況下にいる探偵に対して、犯人から真実が知らされるのであれば、読者もその展開を受け入れる。命がけで手に入れた情報、という立て付けなら納得感もあるし、何より、安易に得られる正解(白状)よりも目の前の強大なピンチにまず目がいく。
ともあれ、主人公は楽して何かを得るべきではないのである。
圧倒的強者が犯行を白状するという構造については、ディズニー映画「ズートピア」を例として挙げておこう。
おわりに
犯人の白状を、探偵と犯人の最後の掛け合いを、これ以上ないくらいのエンタテイメントに仕上げる自信があるなら、最後に一気に崖の上でまくしたてる構成にチャレンジしても良い、と思う。
しかし、崖の上に限らず、犯人が都合よくベラベラと犯行にまつわるあれこれを喋るという展開は、基本的には避けた方が無難だ。なぜなら、それはおよそ作者が楽をしていると捉えられるような代物に仕上がるからだ。
楽をしようとする物語作者に対し、編集は口を酸っぱくしてこう言う。「説明をするな、描写をしろ」
そう、絵で見せる必要があるのだ。
ここにある方法を参考に、うまく読者に真実を伝えてもらいたい。
活用されたし。
ライトノベル作家。
商業作家としての名義は「くれあきら」とは別。今は主にブログで小説にまつわるアレコレを配信中。デビューから商業作家時代の話を「今、小説家になるために必要なもの(1)」に書いてます。