あの作品で使われている物語技法(映画「インクレディブル・ファミリー」)

今回のエントリの題材は、ピクサーアニメ映画「インクレディブル・ファミリー」だ。この映画で使われている物語技法を取り上げてみたいと思う。

インクレディブル・ファミリーについて

映画「インクレディブル・ファミリー」は、簡単に言うとこんな映画である。

舞台はスーパーヒーローが存在し、そして法律で禁止されている世界。街に甚大な被害をもたらし逮捕され、活動を禁止されたとあるヒーロー一家が、ある企業の力を借りてヒーローの汚名返上のために奮闘し、最終的にその活躍によりヒーローを合法化させる物語。

ちなみに言うと「インクレディブル・ファミリー」は「Mr.インクレディブル」の続編で、前作が終わったところからのそのままの続きらしい。僕は前作「Mr.インクレディブル」を見ていない。だから、僕としては続編から見たことになる。

使われている物語技法

さて、この映画で使われている物語技法を見ていこう。

  • 二巻の技術
  • 旅立ちの理由
  • 人間の成長

当然、使われている技術は上の三つ以外にも色々ある(どんでん返し、エピローグ、犯人の告白などなど)。でも今回はこの三つに絞るとしよう。

二巻の技術

この映画は続編である。というわけで、続編(二巻)を執筆する際に使われる技術が利用されている。二巻を書く際の技術については別エントリ「二巻の書き方」に記してある通り。ぜひ読んでおいてもらいたい。

本作でチェックしたい二巻用テクニックは以下となる。

  • 冒頭でのリマインド(キャラクター・設定・前作の内容)
  • ストーリーの展開パターン

冒頭でのリマインド(キャラクター・設定・前作の内容)

前作を見ず(読まず)最新作に手を出す人の割合は、小説よりも映画の方がずっと高いだろう。これは、小説が「読む」という能動的な行為によって物語を吸収していくのに対し、映画は「見る」という受動的な行為によって物語を吸収していくものだからだ。視聴者からすると、「事前勉強なんてするつもりはない、さあ手っ取り早く楽しませて」というところだ。

なので、前作を見ていない観客にも物語の世界観や登場人物の特徴を物語の早い段階で伝え、物語についてきてもらえるようにする必要がある。小説でもそうなのだが、映画の続編だと上記の理屈があるのでなおさら、と言えるだろう。

この「インクレディブル・ファミリー」では、冒頭で銀行強盗を捕まえようとするヒーロー一家の活動を最初に描くことで、彼らがファミリーであること、ヒーローであること、ちぐはぐなコンビプレーをすること、意外に間抜けであること、そしてファミリーの他にも仲間(ファミリーに比べて冷静な人物)のヒーローがいること、あたりが伝えられる。

ただ、前作「Mr.インクレディブル」で何が起きたのか、前作がどんな物語だったのか、本作を見ただけでは、少なくとも僕は分からなかった。それを伝え切るだけの情報が映像上に盛り込まれていなかったのだ。

これは、小説に比べて映画では前作を振り返るコストが大きいから。

小説なら地の文で数行書くだけでも前作の振り返りができるが、映画で回想シーンを入れるとなると数十秒、数分の尺になる上に、入れ方も工夫しないと違和感が出てくる。映画は小説よりも単品で視聴される可能性が高いので、独立性を高め、より単品で楽しめるものにしておく必要がある。

ここが映画と小説の違うところだ。小説なら数行入れておけば十分リマインドができる。コストもかからないので、あえて触れたくないという明確な意図がないなら、軽く触れておくのが良いだろう。

ストーリーの展開パターン

二巻の書き方」の「ストーリーの展開パターンをどうするか」で述べた、二巻を書くにあたってのもう一つのポイントであるストーリーの展開パターンは、(これも一巻を見ていないので確かなことは言えないけれど)おそらくインフレ型と推測している。

前作はヒーローに敵対する何らかの敵組織、適役がいてそれを倒した、という話だったのだろうけれど、今回はそもそもヒーローそのものを潰そうという公的な勢力が最大の敵になる。だとすると、ヒーローと対峙する敵の質が変わっている上に、より手強く強力になっている、と言えるだろう。

そして前作には、「ヒーローが街を壊しすぎる」という伏線的描写がそれなりにあったはずだ。やはり全部推測だけれど、逆算するとそんな感じだと見て取れる。

多分、それほど大きくは外れていないんじゃないだろうか。

前作を見ている人は、「Mr.インクレディブル」と「インクレディブル・ファミリー」で敵(悩みのタネ)のタイプがどう変わったのか、確認してもらいたい。どんな形であれ、敵(悩みのタネ)はファミリーにとってより厄介な代物に変わっているはずだ。

旅立ちの理由

この映画の一番見事なポイントは、旅立ちの部分の書き方にあると僕は思っている。

まず、「インクレディブル・ファミリー」における旅立ちとは何だろうか。それは、家族がヒーロー稼業を辞めざるを得ない状況になったことだ。

一家の母であるヘレン=イラスティガールは、ヒーローを続けたいが、ヒーローが違法となっている現状と、子供たちの将来のことを考え、普通の仕事に就こうと考えていた。あと二週間もしたらモーテルも追い出される。

そんな中、ヒーローの仕事が舞い込んできて、他に仕事がないため、ヘレンはしぶしぶ引き受ける。

が、実際にヒーロー稼業をやってみると、やはりヒーローは楽しい。人から喜ばれるし、やりがいもある。

言うなれば、「のっぴきならない理由で、望んでいた旅に出る」という、ある種いびつな構造になっている。このいびつさについては「小説家は主人公にどんな理由で旅を開始させる?」の「のっぴきならない理由で、望んでいた冒険に出る」で述べている通りだ。

一方、一家の父親であるロバート=ミスターインクレディブルは、ヘレンとともにヒーロー活動がしたいが「お前は街を壊しすぎるからちょっと待て」とおあずけをくらい、しぶしぶ家族の面倒をみることに。

娘のボーイフレンド問題、息子の算数問題、そして末っ子のスーパーパワー暴発問題を抱え、立て続けのトラブルに疲労困憊。どうにか解決しようと努力するも、追加で面倒なことが波状にやってきて、ダウン寸前になってしまう。

つまり、こちらは「のっぴきならない理由で、過酷な旅に出る」という、オーソドックスな成長物語の構造になっている。

旅に出る理由は夫婦で同じ(生活のため)だけれど、その先にある旅は夫婦でだいぶ異なっているのだ。

父ロバート=ミスターインクレディブルのオーソドックスな成長物語の側面で、映画全体に物語らしさ、ストーリー性を与えつつ、母ヘレン=イラスティガールのポジティブなアクション側面で、映画全体に派手さと見栄えとエンタテイメント性をもたらしている。

特に、「のっぴきならない理由で、望んでいた旅に出る」という、通常であれば違和感しか生まない旅を、家庭の縛りや父ロバート=ミスターインクレディブルの奮闘がうまく違和感を打ち消している。

仮にこれがヘレン=イラスティガール側だけの側面しかないとすると、物事がとんとん拍子に都合よく進んでいく印象を与えることになり、面白みにかける物語となってしまう。

一般的に、トラブルはいくらでも都合よく起きて良いけれど、問題の解決が都合よくなされることに、読者は納得も満足もしないのだ。

人間の成長

どんな物語も大抵は人間が成長する。この映画も例外ではない。ただ、成長をする大人を描くということは、成長をする少年を描くということと少し趣が異なることを触れておこう。

物語における大人の成長は、だいたい「自分でできるという過信を改め、他人の価値を認めて協力をしあう」という描き方をされる。

本作に照らして見てみよう。一家の父ロバート=ミスターインクレディブルは最初自分一人でできると息巻いていたが、できないことを認め、謝り、そして協力を仰ぐことで、共に力を合わせてうまくやることを覚えていく。

そう、通常のヒロイックファンタジーとはある意味逆なのだ。通常のヒロイックファンタジーでは、最初は誰かの力を借りて勝利を手にし、そして最後には自分の力で勝つ。

一方、家族を軸にして成長を描く時には、最後にみんなの力で何かを成し遂げることに成功する。

全員での成功は、家族における成長を描く一つのポイントだ。

なお、人間の成長については「なぜ小説家は主人公を成長させようとするのか」にも記している。そちらも参照されたし。

おわりに

というわけで、「インクレディブル・ファミリー」で利用されているテクニックのうちのいくつかを取り上げてみた。

ディズニー、ピクサーの映画はどれも勉強になるものばかりなので、積極的に見た方が良いだろう。

ちなみに、キミがこのシリーズの続編を書くとしたら、次回作はどうするだろうか?

さらに強大な敵を出してインフレを起こす? それとも視点を子供達(ヴァイオレット達)に変えて話を組み立ててみる? あるいはもっと全然別の方法を採用する?

ストーリーテラーは常にそんなことを考える人種だ。キミも考えてみるといい。

活用されたし。