あの作品で使われている物語技法(映画「響 -HIBIKI-」)

一人の天才小説家が登場する映画がある。タイトルは「響-HIBIKI-」。漫画が原作の物語だ。

天才小説家!

小説家で、しかも天才。このブログで取り上げるべき題材じゃないか。

果たして、この映画ではどのように天才を表現しているのだろう。

「天才」を表現する方法

まず、この映画の全体像はこんな感じだ。

若干15歳の天才女子高生小説書きが、その暴力的素行を問題視されつつも、その小説で読む人に感銘と衝撃を与え、小説家デビューを果たし、芥川賞と直木賞を同時受賞する。

ざっくりすぎるが、そういう話だ。

この若干15歳の女子高生が天才小説家というわけだが、どのようにその天才性を示しているか。

これは「天才を描く三つの方法(芸術編)」で記した以下の方法を採用している。

  • 周りがすごいと騒ぐ
  • (作品以外で)本人自体のすごさを見せる

では見てみよう。

周りがすごいと騒ぐ

この映画では、主人公の女子高生である響に殴られながらも、響が書いた小説の素晴らしさについては、殴られたという事実をさておき、認めずにはいられない、というキャラクターが何人か登場する。

そういうキャラクターを登場させることで、「嫌な奴だが小説のクオリティは確か」ということを示している。しかも、その殴られた相手たちは小説家で、小説の良し悪しをわかっている、という構図だ。

もう一つ。主人公の響は小説の新人賞と直木賞、芥川賞を受賞するに至っている。外部の権威に評価されることによって、その天才性を示している。

そして、三つ目として、若さ。若干15歳というその若さが、天才性を一層強調している。

(作品以外で)本人自体のすごさを見せる

この映画では、主人公の響は自分の意見を徹頭徹尾曲げない。気に入らない発言をした人間には暴力と、無邪気な子供の理屈で立ち向かう。

編集者を押し倒し、かつての人気作家を蹴り飛ばし、同時受賞者の同期を椅子で殴り、同級生の指を折る。

このエキセントリックさで、主人公響の天才性を示そうとしている。

天才性の表現の難しさ

この映画を見て改めて思ったのが、やはり天才を表現することは難しい、ということだ。

特に、小説はその中でも群を抜いて難しい。音楽の天才や絵画の天才、あるいは俳句の天才なら、その作品をバンと作中に登場させることも不可能ではない。

だが、小説はその全文を作中に記すことは、もちろんできない。小説の全体像を視聴者に伝えるには、あまりにも時間がかかる。

ではストーリーだけを記したとしたら? どんなストーリーにしたとしても、「そんなありきたりなストーリーで天才とは、天才が聞いてあきれる」となることは確実だろう。

どんな天才が書いた小説でも、プロットにすればありきたりになる(逆に言うと、小説の天才性は言葉の選び方や言葉の流れ、細かい表現などの細部にこそ現れる)。

プロットを出せば「凡庸だ」と減点を食らってしまう。だからこの映画では天才小説家の書いた小説のプロット、あらすじは徹頭徹尾隠され続けた。

事実、主人公の天才性は、彼女の持つ暴力性と受賞だけで表現されているわけだが、彼女の小説がどの程度のものなのか、そもそもどのような小説なのか、何一つわからないまま映画は終わった。

天才性として残ったのは、エキセントリックさ(暴力性)と受賞歴のみだ。

もちろん、これらは常套手段だから、使うこと自体は問題ない。

ただし、その常套手段だけに頼ることは危険だ。そこに、スクラッチで作り込んだ、オリジナルな手作りの天才性をほんの一欠片でも入れるべきだった。

おわりに

天才を描くのは難しい。それにチャレンジをしようとしているこの「響」という作品にまずは拍手、というところだ。僕はまだ原作の漫画は読んでいないが、原作の段階から彼女が天才として登場しているとしたら、拍手を送るべき相手は漫画の原作側なのだろう。その覚悟や良し。

ただ、少なくともこの映画に関して言えば、覚悟だけではやはり足りない。そこには覚悟と、技術が必要だ。

もしキミが天才を描く覚悟があるなら、キミの小説に登場するその芸術家の天才性を、芸術作品の描写を通して表現すべきだ。そうすることで、その天才に立体感が出てくる。

では、立体感を出すためには? 必死に頭を悩ませる他ないだろう。小説の神様が、作者に楽なんてさせるわけないのだから。

天才を書こうとしているなら、そんなキミに一つアドバイス。「天才を描く三つの方法(芸術編)」で示した通り、その芸術作品がどのようにすごいのか、なぜすごいのか、解説と分析の描写を入れてみると良いだろう。

芸術の解説は知的なエンタテイメントになる上に、天才性の補強にもなる。

活用されたし。