あの作品で使われている物語技法(映画「ハリーポッター」シリーズ)

今回はハリーポッターシリーズを取り上げて、シリーズものを書く際のポイントについて触れてみたいと思う。

果たしてシリーズものを書く場合、どんなことに意識を向けて物語を組み立てていく必要があるのだろうか。

あらすじ

まず、映画ハリーポッターシリーズの概要を軽く触れてみよう。ハリーポッターとはどんなお話なのだろうか。

大きく言えばこんなところだ。

偉大な魔法使いの血を引く少年ハリーポッターが、魔法学校で出会った友達や先生たちと一緒に、大切な誰かを助けるために邪悪な魔法使いに立ち向かう。

これがシリーズ全体を通じた軸であり、それと同時に単作品としての軸でもある。つまり、ハリーポッターシリーズは映画では(ファンタスティック・ビーストは抜きに考えると)7作目まで存在しているのだが、そのすべてがこの繰り返しというわけだ。

シリーズもののポイント

シリーズものの難しさは、前作を気に入ってくれた読者(視聴者)に前回の楽しさを与えつつ、飽きさせないように変化をさせる必要があるところにある。

つまり、同じにしておくべき部分と、変えていくべき部分がある。

端的に言うと、同じにしている部分でシリーズ全体のテイストを作り出し、変えていく部分でシリーズ全体の物語のうねりをつくりだす必要がある。

もちろん、サザエさんやアンパンマンのような変化をさせない物語形式もあるが、ここでいうシリーズものは、全体を通じて大きな物語を成しているものを前提としたい。

では、ハリーポッターシリーズにおいて、同じ部分と変えている部分はなんなのか。

同じ部分

シリーズを通じて同じ部分、変わらない部分はこんなものがある。

  • 世界観(魔法の世界)
  • 冒頭の移動(現実から魔法の世界へ)
  • 毎回ゲストの先生が来る
  • 誰かと協力して誰かを助けようとする

一言で言えば、「物語の骨格となるフォーマット(型)」だ。

世界観(魔法の世界)

いわずもがなハリーポッターの物語は魔法が使えるという世界観の中で展開されている。そしてメインの舞台となるホグワーツ魔法魔術学校(とその周辺)は18〜19世紀のイギリス的世界観に満ち満ちている。

人々がハリーポッターを見る理由のうちの最も大きい部分の一つとして、この魅力的な世界観がある。もし仮に、シリーズの途中からいきなり舞台が現代東京で魔法を使うようになったり、あの世界観のまま魔法が出てこなくなったりしたら、少なくないファンが離れていったことだろう。

冒頭の移動(現実から魔法の世界へ)

ハリーポッターシリーズでは、毎回、主人公ハリーポッターが居候先の従兄弟邸にて虐げられているところと、魔法学校からのお呼び出しがかかって颯爽と魔法の世界に行くという状況が描かれる。

世知辛い現代とあのハリーポッター的世界が列車で地続きというのは実に面白いと思うのだが、ではなぜハリーポッターは毎度毎度親族に虐げられているのだろうか。

もう少し言うと、このハリーポッターシリーズの製作者陣はなぜ冒頭に毎回そのシーンを配置しているのだろう。みんな魔法の国が好きで見ているなら、冒頭の現実シーンなど見る必要がないのでは?

もちろん意図はある。魔法の国ではスーパースターで超有名人の主人公ハリーポッターに対して親近感や同情を抱いてもらい、物語に寄り添えるようにするためだ。

ちなみに、この現代的現実からヨーロッパ的魔法の世界への移動というのは、異世界転生を思わせる。両者の魅力を分析すると、通じるものがあるに違いない。

毎回ゲストの先生が来る

ハリーポッターシリーズでは、一回目を除いては毎回新キャラの先生が登場する。そしてこの先生が、実は悪役だったり、悪役と思わせて味方だったり、というサスペンスのネタを提供してくれる。

善人、悪人、どちらに転ぶにせよ、物語に緊張感を与えてくれるのが、この毎回登場する新キャラの先生ということになる。

毎度新任の先生が来るわけだが、その赴任理由はまちまちだ。前任の先生が前作の悪役で、ハリーポッターたちに倒されてしまったから教員に欠員が出た、とか、お役所(魔法省)から監査役として赴任した、とか。

新任教師が登場する、という型は同じ。でもその理由にはバリエーションがある。登場のさせ方を変えることにより、毎度同じ感を払拭することができる。

誰も、ハリーポッターシリーズを見て、「また新しい先生が来たよ、毎度同じでワンパターン、うんざりだ!」なんて思わなかったはずだ。

誰かと協力して誰かを助けようとする

ハリーポッターシリーズでは、毎作品、誰かと協力して誰かを助けようとする。

一作目では、友人と協力して、悪役から友人を助けようとする。

二作目では、友人たちと協力して、悪役から友人の妹を助けようとする。

三作目では、友人たちと協力して、物語の中で出会った関係者と動物(ドラゴン)を助けようとする。

四作目では、学校の先輩たちと協力して、悪役(ラスボス)から学校の先輩を助けようとする。

五作目では、先生たちと協力して、学校を乗っ取ろうとする新任校長(と魔法省)から学校と大切な人(ハリーポッターの両親の親友)を助けようとする。

六話目、七話目では、話がクライマックスに突入し、学校全体が悪役魔法使い集団と対峙していく。そしてラスボス率いるその集団の恐怖と支配から魔法の世界を救おうとする。

スケールが違ったり助けようとする相手が違ったり結果が違ったりするが、基本的な行動パターンは同じ。誰かと力を合わせて誰かから誰かを守ろうとする。

変えている部分

シリーズ全体を通じてドラマを組み立てる場合、毎回同じパターンでは単調に見える。ハリーポッターではどのようにしてその単調さを回避しているのか。

「スケール」と「結果」の変化だ。

スケール

ハリーポッターシリーズでは、シリーズとしてのドラマ性を生み出すためにスケールを変えている。何のスケールか。

端的に言うとこんなところだ。

  • 敵のスケール
  • 仲間のスケール
  • 助ける対象のスケール

最初は友達を助けるために友達と協力して小物の敵に立ち向かっていた。

しかし、シリーズが進むにつれ、仲間は先生や学校全体にまで徐々に広がっていき、助ける対象も友人から先生、学校、魔法の世界とスケールアップしていく。

立ち向かう相手もより強大になっていく。いわゆる少年誌でいうところの「強さのインフレ」というやつだ。

確かに「強さのインフレ」はパターン化を招きやすく、読者を飽きさせ、作家を疲弊させる。しかし、延々と続けていくものではなく、全体のイメージが完成している場合、強さのインフレは効果的に物語をまとめ上げる。

そう、ハリーポッターシリーズのように。

結果

とはいえ、スケールの変化だけではドラマに深みが出ない。では何で深みを出しているのか。それが「結果」だ。

結果とはなんだろう。

先に僕が語った「誰かを助けようとする・・・・・」の部分の結果だ。僕が「誰かを助ける」ではなく「助けようとする」と記載している理由は、「助けようとしたけれど、結果として助けられなかった」という状況があるためである。

そう。ハリーポッターシリーズでは、四作目(「ハリー・ポッターと炎のゴブレット」)で先輩を助けられなかった。それまではピンチになりながらも順調に平和に物語を終わらせることができていたハリーポッターたちだが、この四作目で初めて挫折を味わう。

ラスボスであるヴォルデモートにハリーポッターたちは不意を突かれて襲われ、そして目の前で先輩が殺されてしまうのだ。

言うなれば、自分の非力さを味わう。挫折をすることになる。

これ以降、五作目(「ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団」)でも大切な人物(シリウス・ブラック)を殺され、六作目(「ハリー・ポッターと謎のプリンス」)では校長ダンブルドアも失う。


誰かを助ける、ということが行動の軸であるハリーポッターにとって、助けられなかったというのは挫折以外の何ものでもない。

そんな失意の中、だからこそ守るべきものが何か、立ち向かうべきものが何かを、ハリーポッターは改めて思い知り、決意を固める。

この失意と決意の力学が、シリーズ全体に躍動感とドラマを生み出している。

毎回同じ成功を無難に収める主人公よりも、挫折を味わう人間の方が、ずっと人間味と親近感が感じられる。そういうことだ。

終わりに

昨今、本が売れない中、シリーズものの小説を書くことはどんどん難しくなってきている。シリーズ全体で物語を成立させるようなストーリーを展開するほど、巻数を出させてもらえないのだ。

だから、編集部にも作家にもシリーズもののノウハウがなく、一部の作家を除いて、それはどんどん失われている。そう思う。

しかし、肉厚なシリーズものの持つドラマというのは、今後も人を魅了するだろう。そして、シリーズもののみが持つ面白さや深みというものもまた、存在し続けるはずだ。

僕自身、まとまった、きっちりと完結したシリーズものを書いたことはない。

だが、今後書いてみたいとは思っている。その時、ここに記した技術が参考になるはずだ。

本エントリはそんな覚書の意味も込められたものなわけだが、キミがシリーズものを書く時にも、きっと役に立つ。

活用されたし。

ライトノベル作家。
商業作家としての名義は「くれあきら」とは別。今は主にブログで小説にまつわるアレコレを配信中。デビューから商業作家時代の話を「今、小説家になるために必要なもの(1)」に書いてます。