あの作品で使われている物語技法(映画「ボヘミアン・ラプソディ」)

今回のエントリでは、伝説のロックバンド「Queen」を題材にした映画「ボヘミアン・ラプソディ」を題材にしたいと思う。めっぽう評判の良いこの作品、果たしてどのような物語技法が使われているのだろうか。

ちなみに、キミがもしこの映画をまだみていないのであれば、このブログを読んでいる場合じゃない。つべこべ言わずに早く映画館に向かうべきだ。

あらすじについて

まずは軽くあらすじについて触れてみよう。「Queen」のボーカル、フレディ・マーキュリーを主人公に据えたこの映画は、端的にいえば、「幸せの青い鳥」と同じ構成を採用している。ディズニー映画を知っている人であれば、「ヘラクレス」と同じだと思ってもらえれば伝わるかもしれない。

要するに、こんな構成だ。

  • 不満:今の自分に不満を感じている。(インド出身で家庭はゾロアスター教=ロックっぽくない)
  • 成功:才能を活かしてスターダムにのし上がる。(「Queen」としてのデビュー)
  • 対立:自分の力を過信して周りとぶつかる。(メンバとの仲違いからソロデビュー、「Queen」としての活動を一時休止)
  • 挫折:周りから孤立し、挫折を味わう。(信頼できる仲間が周りにいない、大切な人は自分から離れていく)
  • 改心:孤立の中で大切なもの=人はすぐそばにあると気づく。(自分の親、恋人、その家族、そして「Queen」が大切)
  • (再)成功:大切な人たちと一緒に再度成功を手にする。(再度「Queen」として活動、チャリティイベントでの成功)

実にオーソドックスな物語展開。

フレディ・マーキュリーの人生を題材にしているとは言いながら、事実とは異なる部分も多数見受けられる。

しかし、そこはエンターテイメント。脚色や演出はご愛嬌だろう。

使われている技法

この映画「ボヘミアン・ラプソディ」ではどのような物語技法が使われているだろうか。もちろん数々のテクニックが用いられているが、ここで紹介する代表的なものは以下だ。

  1. 自分の弱さを認める成長
  2. 冒頭と最後で、同じ言葉を、違う意味で使う
  3. エンディングでのナレーション

では、それぞれ見ていこう。

自分の弱さを認める成長

この映画で主人公のフレディ・マーキュリーは典型的な成長をしてみせる。

冒頭のフレディは、インドのゾロアスター教の家庭に生まれたことをコンプレックスに持ち、父の教えをどこかバカにするような青年として描かれる。

やがて、持ち前の音楽的才能が開花し、瞬く間にスターダムにのし上がるフレディ。新人の頃からずっと勝気で、ある種のわがままさと傲慢さが随所に目立つ。

そんな彼の傲慢さが仲間との歪みを生み、バンド「Queen」は空中分解。フレディはソロでの活動に力を入れる。

しかし、今までと勝手が違うせいもあって、うまく曲が出来上がらない。アルバムが完成しない。やがてドラッグに頼るようになり、生活は乱れていく。

そんな中、自分の近くにいた人物(マネージャー)が信頼できない男だと知り、信頼すべき相手(バンドメンバ)をないがしろにしてきた自分の愚かさに気づく。

フレディは自分の非を認めて詫び、再び共に音楽をやりたいと仲間たちに求める。仲間たちはそれを受け入れ、「Queen」として最高のパフォーマンスを、映画の(フレディ本人としては人生の)クライマックスで披露する。

こうした、一人前のはずの人間が自分の非力さを認め、周りと協力してより大きなことを成し遂げる技術については、「なぜ小説家は主人公を成長させようとするのか」で取り上げている。ぜひ合わせて読んでもらいたい。

冒頭と最後で、同じ言葉を、違う意味で使う

この映画では「冒頭と最後で、同じ言葉を、違う意味で使う」(詳細は後述)という手法も、実に効果的に使われている。

具体的には、冒頭、音楽にのめり込んで夜毎遊んでいるフレディに対し、彼の父がゾロアスター教の教えを説くシーンがそれだ。

「善き考え、善き言葉、善き行動」(だったか)を実践せよ、と訴える父に対し、フレディは「それで何かいいことが起きたんだっけ?」と反抗的に言う。家族の教えをバカにし、ないがしろにしていたわけである。

しかし、仲間割れや仲間との仲直りを経験したのち、フレディは別の場所で再びこの「善き考え、善き言葉、善き行動」という言葉に出会う。その時フレディは、その言葉を受け入れる。

今まで自分を支えてくれた仲間、家族に愛を注ぎ、善き行動を(チャリティコンサートへの参加という形で)しようとする。

「善き考え、善き言葉、善き行動」という言葉の意味自体は何も変わっていない。しかし、主人公(フレディ)の気持ちが変わった。その言葉を受け入れるだけの準備が整ったのだ。

ある意味、この「ボヘミアン・ラプソディ」という物語は、フレディの父が言った「善き考え、善き言葉、善き行動」という言葉をフレディが受け入れるまでの物語、と言っても過言ではない。(音楽を抜きにすれば、だが)

ここで記している「冒頭と最後で、同じ言葉を、違う意味で使う」という技法については、「小説家がどうってことない言葉を輝かせる方法」で詳細を取り上げている。ぜひ参照してもらいたい。

エンディングでのナレーション

もう一つ、この作品で使われている物語技法を紹介しよう。

それは、エンディングの文字ナレーションで使われているテクニックだ。

この映画は、本編が終わってエンディングに入る時、「Queen」の「Don’t Stop Me Now」に乗せて文字ナレーションが表示される。

「Don’t Stop Me Now」が流れ、画面に出てきたナレーションの文字を見て、僕の唇は震え、こらえきれずに暗闇の中で泣いた。だから、どんな文字ナレーションがなされていたか、細かくは覚えていない。

しかし、だいたい以下に記しているような内容だったはずだ。そこまで大きくは外していないだろう。

  • ライブエイド(映画のクライマックスとして描かれているチャリティコンサート)で集まった金額は何億ポンドで、それらはアフリカの恵まれない人々への支援へとあてられた。
  • フレディ・マーキュリーはエイズからくる肺炎のため1991年に死去。享年45歳。ゾロアスター教の作法にのっとり、火葬にて弔われる。
  • フレディの最後は、晩年をともに過ごした恋人であるジム・ハットンが看取った。

といった事実を淡々と述べたような文字ナレーションが、先にあげた曲「Don’t Stop Me Now」とともに、画面に現れたのだ。

さて、ここで使われている物語技法(というかナレーション技法)と、その効果というのは何なのだろうか。

それは、言うなれば「冷静と情熱」、もしくは「甘いお菓子に塩」だ。

例によって例のごとく、何が何だか分からないだろうから、説明をしよう。

ナレーションとして現れる文字は、あくまでも事実だ。それを淡々と、冷静に、淡白に述べているだけである。

しかし、そこで語られている事実は、物語の中で語られた熱い部分や情熱的な部分、例えば主人公の成長に関わるものだったり、何らか読者の心に刺さるものだったりする。

例えば、「アフリカの恵まれない人々への支援」は、父からの教えである「善き行動」を連想させるだろう。まさにフレディの成長が如実に表れている部分といえるだろう。

また、「ゾロアスター教の作法にのっとり」は、やはり父からの教えと家族の絆を大切にしたことを視聴者に連想させる。そしてそれは、フレディ自身の成長にもつながるものとして視聴者は受け止めるはずだ。

そして、「恋人であるジム・ハットンが看取った」の言葉から、視聴者はフレディが「本来の自分の一面(ゲイである自分)」を受け入れた、と見て取るに違いない(※)。

(※映画の中で、ジム・ハットンはフレディに「本当のキミを見つけ出したら、わたしのところへ来い」といったことを言っている)

淡々とした事実の羅列の中に、心を突き動かす要素を入れる。そんな「字面の静けさ」と「静けさに潜む動」に、僕たちは感動を覚える。

まさに「冷静」と「情熱」を内に秘め備えた文字ナレーション。

「甘いお菓子」に振りかけられた「塩」の粒が、お菓子の甘さをより引き立てるように、「淡白で冷静な事実」の列挙が、その裏にある「情熱的な思い」を、より一層どうしようもなく際立たせる。

そう。ポイントは対比だ。

「冷静」と「情熱」。

「死」と「生」。

「静」と「動」。

映画のクライマックスであるライブのシーンである「動」から、文字ナレーションという「静」にダイナミックに移り変わる。その時、同じく「生(ライブシーン)」が「死(享年45歳)」にダイナミックに移り変わる。

映画が始まって終わるまでの約2時間、ともに生きてきたフレディがいきなり文面だけであっけなく死を告げられる。そのあまりの無情さに、僕たちは悲しみを感じる。

それと同時に、その無情な文面から滲み出す幸福(ハッピーエンド)のかけらに、僕たちは救いと喜びを感じる。

バンドメンバを含めた家族(ファミリー)のもとに帰ることができたこと。愛する人とともに生きることができたこと。父の教えを継承したこと。

そうした幸福のかけらを冷静で淡白な文面の中に紛れていることをふと見つけて、僕たちは涙する。事務的とも言える硬質な文面の中に潜む(著者の熱い)思いに不意打ちを受けて、心を揺さぶられるのだ。

そして、その硬質な、それ単品ではなんの意義も感動ももたらさないような文面の中に、物語を見終えた後だからこそ意味をなす言葉たちが在ることに、感情を突き動かされるのだ。その点において、先に述べている「小説家がどうってことない言葉を輝かせる方法」のテクニックも、このエンディングのナレーションの中に潜んでいると言っていい。

ナレーションについては機会があれば別のエントリでも語ろう。

おわりに

映画「ボヘミアン・ラプソディ」は、物語としてはオーソドックスなものと言えるだろう。ごく普通で、シンプルで、王道の成長物語だ。

そんな王道の映画を、「Queen」の音楽と役者たちの演技が、何倍にも素晴らしいものに仕立て上げている。

この作品は、「Queen」ファンならずとも心を動かされるはずだ。ぜひとも映画館でむせび泣いてもらいたい。

そして、感じた気持ちにメスを入れ、なぜ自分が感動したのかを分析し、キミ自身の作品に活かしてもらえればと思う。その時、このエントリの内容が少しでも参考になれば幸いだ。

活用されたし。